アンドロメダ病原体

世界は何度でもはじまり、ひとは一回きり終わる

一月三十一日
 
 一月ももう終わり。

 最近じぶんが此の世から居なくなる日(あるいはその瞬間)のことを考える。
 僕は地獄も天国も転生も「無い」と思っている。幽霊なんか出るわけがない。
 あるのはただ「無」だ。(「無」が「無い」とか考え出すとややこしいので今は省く)
 「無」を考えるのはきつい。
 この考えている自分が(コギト・エルゴ・スムとか笑)無くなってしまう。永遠に「認識」ができなくなる。
 僕はカレーライスを食べ尽くしても無常感に襲われる人間だ。
 そんな人間が「自分が無くなってしまう」ということは、滅茶苦茶せつない。
 変なはなし、自分で自分を終わらせる、ということは僕にはできないだろうという確信がある。自分が「無」に行くことが、どうしてもリアルなものとして体感できないのだ。

 それでも僕は歳をとる。
 確実に、生きている時間は減ってゆく。
 それでもよし、などとは思えない。
 今を充実させて生きよう、などとも思わない。
 「今」の充実とは所詮虚無との背中合わせでしかないからだ。充実は充実を求め、餓えて止むことがない。

 だからぼおーっと考える。
 考えることが絶対に及ばないことを考える。
 そして思う。

 虚しくなんか無い。
 虚無さえも此の世には本来無い。虚「無」だから在るわけがないのだ。

 たぶん僕は苦痛の果てに(それが比較的穏やかであることを祈る)、「ふっ」と居なくなるだろう。それはもう、ほんとうに仕方のないことなのだから。
 その覚悟ができているのかと問われれば、さっきも書いたようにできていない。ただ、仕方のないことは、仕方なく訪れて、僕はいなくなる。
 
 不条理。

 これほどの不条理はないのだが、「定型詩」というのもまた不条理だ。なぜ575に、あるいは57577にしなければならないのか。
 この不条理性があるから、僕は川柳を続けていられるのかもしれない。不条理とは、永遠に自分の体外に在って、それを吸入する行為自体がシーシポス的で、狂う寸前にまで到るいとなみで、だからこそ僕は「生きて」いられるのだと思う。

 そんなわけで川柳について考えたのがこちら。


 「助詞」という不条理によって川柳はいかに〈像〉を結ぶか、という講義。早い話がこの記事を読んでくれい、という宣伝であった。生きることはむずかしくて、少しだけ簡単でもある。

  象の居た県庁跡にハジキ埋め  大祐

#川柳 #生きる

  

コメント