つぎの石につづく

明日は後方に在り


十月九日

『あしたのジョー』の内容に触れるが、本棚にある『ジョー』全巻をまったくひらかず、記憶だけで書く。それがなにゆえなのか、語ってゆければよいと思う。
 
『あしたのジョー』のことばかり思い出していた。
 
 今日、こんな感じの川柳をつくった。
 

  軍人将棋やりなおしてここは良い便器だ
 
  言語学倫理学性科学サルノコシカケをめぐり
 
  桔梗屋の存在と時間を日記しませうか
 
  記号と事件ピンクパンサーおにぎらず
 
  いかにして眠る:ノヴァ急報
 
 
 5・7・5が「川柳」だとしてこれらは「川柳」とは呼べないかもしれない。noteにまとめたのでご興味ある方はご一読をお願いする。「ノックスの十戒(断つ) 川柳57句」どう思いますかこれ。
 
 そして、『ジョー』のことを風呂桶でしきりに思い出していた。
 
 高森朝雄(梶原一騎)−ちばてつやの手になるこの作品について、以前どこかで書いた気がする。「あしたのために」ボクシングをくりひろげてきた矢吹丈は、ついに「あした」を拒むことによって、物語を完結させざるを得なかった、という意味の文章。
 
 パンチドランカーとして、「死」を目前にしながら、世界王者ホセ・メンドーサに突貫していったジョー。最終的にあの有名な——しかしそこに至るまでの経緯を見届けた者は21世紀にどれだけいるのだろう——ラストの「白」はしかし「作品」の「破壊」ではなかったか?
 
 そんなことを思いながらシャンプーをしていた。ふと、575とは「記憶装置」ではなかったか、と思った。
 
 575、あるいは57577の75調は響きが良いという。だが、「響きが良い」からどうだというのだ。その言葉の滑空感の彼方に、目指されるものがあったはずなのだ。
 
 そのうちのひとつに(すべてとは言わない)「記憶装置」の役割があったのだと思う。
 
「語呂がいいから覚えやすい」点もたしかにあったろう……だがもっと本質を言えば、「5・7・5」という「容れる箱」の大きさが決まっていること。これはラディカルにわきまえておくべきことだ。容れ物の大きさ=容れられる物の大きさであるとすれば、それは記憶をたやすくするし、さらに言えば「時間」を制御することでもあるはずなのだ。
 
「5・7・5」という「時間」の箱。
 
『あしたのジョー』は「あした」を拒否した。それは「時間」を拒むことでもある。そもそもジョーの過去はほとんど(わずかな警察の尋問を除いて、いやそれがあるから一層に)語られることがない。「あした」を最終的になくすものには、はじめから「きのう」もないのだ。
 
 一瞬の焼尽。
 
「今」しかないということ。これが今日、しきりに『あしたのジョー』を思い出していた理由ではなかったか。こんな老人が自分をジョーに比するのは醜い自己愛でしかない……しかし醜さは誘因力を惹起する……「軍人将棋やりなおしてここは良い便器だ」の「覚えにくさ」……ここに「きのう」も「あした」もない……「今」だけがあやうく句をささえている……じじつ、あした(!)の私はこの句をたぶん忘れている……。
 
 それが打撃によって廃人と化したカーロス・リベラの姿にどれだけ似通っていたとしても。(カーロスはそもそもジョーの鏡像としてあった)。きのうをなくし、あしたをなくし、服のボタンを掛けることもできなくなったスタイリスト。そのボタンを掛けてやることがやはりできなくなったジョーの愕然。
 
 いま私は愕然としているのかもしれない。
 
 なぜ、こんな句を作ってしまったのか。作ろうと思ったのか。私はあしたを失くすのがおそろしい。ホセ・メンドーサのように。
 
 だが、どうなのだろう? 私は川柳を書く。この「書く」といういとなみに、そもそも「あした」も「きのう」もあったのか。記憶装置としての575? それを拒むところに、私の川柳ははじまっていたのではなかったか。
 
 じぶんのことを語りすぎたがブログとはそういうものだ。だから誰も読みはしない。ただ忘れられてゆく。ただあしたをまえにして、きょうはきのうになってゆく。この長く短い夜のことを忘れずにありつつ、忘れてゆこうと思う。
 
 本棚の『あしたのジョー』はひらかれないまま、私は「出血を見るとパニックになるボクサー」の名前を忘れつつある……。
 
  「何も彼もうしなう」海鞘をもってくる  大祐

コメント