凄い奴、というより、おそろしい奴が入学してきた、と噂になったのは、我々が高三に進級した春のことであった。
噂の主はすぐ目についた。仮に野獣くんとしておく。身長は百九十センチを越えていた。胸板も腹筋もプロレスラーのように厚かった。何より押し潰されたような顔の中で、眼光が異様に鋭かった。例えるなら、修羅場をくぐってきたヤクザのそれだった。
「中一の時に既に諏訪地方を締めていたらしい」
「『より強い相手』を求めてこの高校にきたのに、『S高には歯ごたえのある奴がいねえ』とフラストレーションをためているらしい」
噂は噂を呼び、クラスで唯一「女を知っている」サワウチくんが野獣くんとかち合わないために通学路を変えた、という事実を目の前にして、我々の恐怖は頂点に達した。
普段から「質実剛健」だの「千万人と雖も我ゆかん」だのと威勢のいいことを言っていながら、基本的にはガリ勉の集まりであるS高校生には、彼は、あまりにも異質であり過ぎたのだった。
僕も、学校帰り、彼を見かけたことがある。裏通りの公園のベンチで、三年の女子を抱いて「がはは」と笑っていた。
体が大きいとか喧嘩慣れしているとか、そういう問題ではなく、存在の立脚点が違うのだと、僕は思い知ってその場を逃げるように去った。
嗚呼、それなのに如何なる運命の悪戯であろうか?
体育祭の季節は逃れようもなくやって来て、我々のクラスは野獣くんのクラスと、「棒倒し」で対戦することになったのだった。
一回戦。
向こうは野獣くんを先頭に、というか彼一騎で当千なのだが、攻める気満々である。こちらの軍師であるサワウチくんは言った。「こうなったら、攻撃に力を入れよう。俺、攻撃な」
「俺も」「俺も」「俺も」
僕も言った。「あのう、僕も攻撃隊に参加……」
「お前なんか攻撃力ねえんだから。しっかり守ってろよ」
と言うわけで、クラス二十人中十八人が攻撃隊、棒を守るのは僕とサイトーくんの二人のみと言う超変則布陣がいつの間にか出来上がっていた。僕もサイトーくんも図書委員で、「今度出た富士見ファンタジア文庫面白いよね。美少女の魔導師なんだけど、生理が来ると魔法が使えなくなるところが」などと喋り合っていた間柄である。
一回戦の笛が鳴った。
……結果は書くまでもない。地面に伸びた僕らを見て、野獣くんは、「歯ごたえねえ」と言い捨てて自陣に帰って行った。
「しっかり守ってろって言ったろ、お前ら」
と戻ってきたサワウチくんは言ったが、嗚呼、悪いのは僕らなのでせうか? ともあれ二回戦がはじまる。こんなところで若い命を散らしたくない。僕はサイトーくんに耳打ちした。
二回戦の笛が鳴った。
残酷を秘めた観客の緊張が高まり、爆笑に変わった。
嗚呼、如何なる逆転の発想であろうか?
僕とサイトーくんは、「よいしょ」と自軍の棒をかつぎ、全速力で逃げ出したのである。
「逃げています。三年二組、逃げています。逃げろ逃げろ」
と、実況。ひとしきり校庭を走り回って、僕らは文字通り肩の荷を下ろした。
「ただいまの試合は、ルール違反により、反則負けといたします」
と、実況。
やれやれ、と僕とサイトーくんは顔を見合わせて、客席に戻ろうとした。その瞬間、ぶん、と何か重いものが僕らの横を飛んでいった。
地面に転がった「それ」は、たったいま僕らが地に下ろした棒だった。振り返ると、野獣くんが顔を真っ赤にして叫んでいた。
「ふざけんなあっ! 正々堂々と勝負しろおっ!」
その瞳が少し潤んでいるようだった。彼は意外といい奴だったのかもしれない、と思えるようになったのは、それから二十年も経ってからである。
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