どこまでも続く〜鈴木智子さん第一歌集『砂漠の庭師』

  城もなき町の宿屋で厳かに見つけたものは一本の螺子  (鈴木智子『砂漠の庭師』より、以下引用歌は同書による)

 結論から言うと、ここが結論なんですね。
 などといえば言葉遊びがすぎるのかもしれないのですが、〈たどりついてしまった〉極致にあるものは、「一本の螺子」という、これ以上収斂しようもない具体物だったりします。
 その「螺子」にどんな意味があるのかとか、そんな詮索はやめましょう。ただ言えるのは、鈴木智子さんは歌集『砂漠の庭師』において、この結論を結論にしなかったということです。
 解説で土井礼一郎さんがご指摘の通り、「旅」がこの歌集の大きなテーマになっていると思います。
 もっと言うなら、〈移動〉というモチーフが、この歌集に、人の心を駆り立てる何かを与えていると思うのです。
 代表歌と言うべき、

  いつまでも辿り着けない吉祥寺そんなことすら愛おしかった

 にしても「辿り着けない」ことは悪夢ではなく(作者の感慨とは違うかもしれませんが)、可能性であります。辿り着いてしまった瞬間に、「一本の螺子」という、ある意味ではこれから変化の出来ないものに限定されてしまう。
 「城もなき」の歌を結論にしなかった、というのは、これが歌集の前半の何気ない位置に置かれたというだけではありません。
 「宿屋」という、仮の居場所であることから、作中主体がつねに〈移動〉の途中であることが示されています。
 つねに移動の途中であること。
 それは、主人公が何かから何かに向かうと言うことです。

  エスカレーター昇るとき君は唐突にさよならを告げ強くなる雨
  錆びていく自転車撫でて手離した ああもう迷えることはないのだ
  この部屋のどこかにあると姉は言う アンモナイトの化石いずこへ

「昇る」という位置の変化と、「さよなら」という状況の変化。
「迷えることはないのだ」という「迷えること」を「手離した」という状態の変化。
「どこか」「いずこへ」という「この部屋」がぐにゃりと歪む世界の変化。
 この〈変化=移動〉を軸にして読むと、たとえば次のような歌はどうでしょうか。

  じいさんはうなぎがとても好きでした。だからお骨に山椒をかけた

 一見すると、葬礼の戯画化とかなしみの同居とも読めます。だがその〈読める〉原動力はどこから来ているのでしょうか。
「じいさん」が「うなぎ」に〈変化=移動〉をしていること。何もかも流動していくことに、この歌のエネルギーは端を発しているのではないでしょうか。
 ここで、「じいさん」は「お骨」になります。だが注意してみましょう。上句と下句のあいだには、「。」が置かれています。
 これは果たして完結の「。」なのでしょうか。私にはそうは思えません。「だから」でつながっていることから考えても、意味の上でも、上句と下句は一直線です。
 ならばなんのための「。」なのか。
 もしかしたら、「。」は続けるための記号ではないでしょうか。この〈世界〉が無数に分断されて、それでも離れていくもの/ことをつなげるための、結節点としての、「。」。
 これには、つねにばらばらになる怖れをいだきつつ、だからこそ今から未来へと続く〈移動〉が象徴的にあらわれていると思うのです。
 そうなったとき、 

  広いのは成田ではなく世界です。見知らぬ色の飛行機がゆく

 の「。」もまた、分断ではなく、統合のための「。」ではないかと感じられます。
「見知らぬ色」というのは、こわいことであります。自分の見ていることが「見知らぬ」と感じられるわけですから。でもここで、主人公は「成田ではなく世界」と言い切ることによって、自分が「ゆく」存在であることを引き受けようとしています。
 それは、つねにわれわれが〈どこから来て・どこへ行くのか・何者なのか〉という問いを発する旅人だからかもしれません。ここにおいて、主人公の〈私〉は、読み手の心を掻きむしる普遍性を持つのでしょう。

 と、駈け足で見てきましたが、文句なしに面白い(肯定的な意味で使っています)歌集です。歌を読む/詠むひとだけではなく、〈よまない〉ひとほど手に取ってほしい。
 生きてゆく、勇気の書だと、断言できます。

  人生に意味なんてないタクシーで砂漠の道を突き進むとき

『砂漠の庭師』鈴木智子著 デザインエッグ社 2018年12月発行

 

コメント

  1. こんにちは。
    突然の投稿、失礼いたします。
    川合大祐さん、ひょっとして高校の同級生だった川合さんではありませんか?
    もし、人違いでしたらすみません。

    岡谷西龍会 元会長のT.M.

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