御嶽海である。
長野県出身である。
長野県民は相撲取りに餓えていた。過去に、これほど活躍した県出身力士は(雷電除く)いなかった。いや大鷲だって父子とも凄いんですけどね。ともかく、御嶽海の話になると頭の螺子が外れる。
その証拠に、御嶽海が白鵬に勝つとトップニュースになるし、優勝でもしようものなら、「号外が出る」んである。
そんなわけで僕も「みーたんはさー。天性の相撲勘がありすぎるところが諸刃の剣だよねー」といっぱしの通ぶっている。何様だ。
しかし相撲というのは、終わるまで結果がわからない。
今日は負けてしまったが、その瞬間の「あ・・・」という感覚は言葉にしがたい、ハートがすぽっと抜ける崩壊感覚である。
そういう意味で、おそろしいほどに未来があらわになる。
十五日という(仮構の)有限の時間のなかで。
エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』再読。
初めて読んだのは二〇年前、工場の昼休みに、ひとり腕立て伏せのあと、作業服のポケットから取り出して、現実から逃れるためだけに読んでいた。読んでいたといっても、もう統合失調症がひどくなっていたせいか、何を書いてあるのかさっぱりわからず、ただ文字の連なりを消費していただけで、「読んだ」のは今この歳になって、やっとである。いや今だって「読めた」かどうかは判然としないのだが。
ただ、二〇年前の僕に、以下のような文章を「読んで」ほしかった。
そして、未来もあいかわらずのしょうもない自分だけれど、何とか生きていることを、御嶽海という力士を観て、夕飯を食っていることを、ちゃんと知らせたかった。
救済がただたんに代償を与えるということではなく、苦しみのその瞬間に関わるものでなければならないという不可能な要請があることを示している。時間の本質とは、この救済の要請に答えることなのではないだろうか。
きらきらと瞬く光、そのきらめきがあるのは消えるからこそであり、それは、あると同時にまたないのだ。
ーーE・レヴィナス『実存から実存者へ』
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