ジークムント・フロイト『モーセと一神教』読了。
なんで今さらフロイト、なのだが、しばらく前からプロレスリング・ノアのことを考えるたび、「これって『モーセと一神教』だよな」と考えていたのである。
であるのに、きちんと『モーセ』読んでいなかったので、あらためて。
どうなんだろう。ジャイアント馬場=モーセ=原父として、全日本のレスラーという民族は、象徴的に父を殺してしまった。その反復として、三沢の悲劇はあったのではないか?
というのが未読時に漠然と立てていた図式なのだが、どうも、微妙に異なる。
異なるってったって、そもそもお前の妄想じゃん、と言わればはいその通りにございますなのだが。
身も蓋もないことを言えば、『モーセ』は読み物として、面白すぎる。
謎が謎として、そびえたっている感じなのだ。
(ミステリもの、ともまた違う)
フロイトの受容/否認のされかたの原因は、この「語る」おもしろさの辺にあったのかと、今さらにして思い至った次第。
(「語る」こととフロイト理論の合致については、沼なのでやめておく)
そのおもしろさは、たとえば四天王時代の全日本プロレスに通じるものがあったのではないか。
プロレスリング・ノアと『モーセと一神教』のパラレルは、「語り」のタガが外れそうで外れられない、その抑圧ぶりにあったのではないか。本の内容ではなく、本のムーブにおいて。
はっきり言って、全日系をフロイトに投影するのは、僕の妄想である。
だが、というか、であるからこそ、全日〜ノアに触れた人びとには、フロイトを薦めたい。
という投げっぱなしついでに、問いを立てておく。
ジャイアント馬場と三沢光晴は、「誰と誰」だったのだろう?
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