虚構の時代の果てしなき流れの果てに |
2020年という数字に実感が持てないのに、よりにもよって『風の谷のナウシカ』を映画館で見ることになろうとは。
これにはひとつのーーあるいは複層したーー結局は同じことーー「恥ずかしさ」が伴う。
2020年、46歳で、『風の谷のナウシカ』。
なんかとても恥ずかしい。「まだプリキュア観てんの?」「まだでんぱ組聴いてんの?」「まだプロレスグッズ買ってんの?」とは違う、恥ずかしさ。
何だろうーー馬鹿馬鹿しくも喩がすぎるでしょ。
ナウシカが「アスベル! マスクを!」とか言うんですよ。
これ、1984年の人間に「人類が滅びかけててさあー、みんなマスクしててさあー、そんでナウシカ観てんの」って言ったら冗談にしか取られないでしょ。まああの時代の人間は大喜びしたかもしれないが。
(って今日書く文章、完全に「あの時代」の皮膚感知ってる人を前提に書いてます。若い人たちに伝達しようとか放棄してます。すみません。)
だから、自己免疫を上げて行きましたよ。
「毎月1の日は映画館サービスデイだから、明日ナウシカ観にいくんだ…(フラグ)」とか、
「今更だけどペジテ市国って何気にクリーミィマミとペルシャいるよね(声優ネタ)」とか、
「ペジテといえば国民に容赦無く後頭部殴打されるアスベルって王族としてどうなのよ(30何年前からあるツッコミ)」とか。
自分に言い訳して、それで映画館に行ったら、サービスデイは今日だけじゃなく一週間続くと知ってやや愕然とする。いや愕然ではなかった。肩透かし。それでも、この映画館、よく潰れないなーとは思った。
客は数人。私と同じ年代。ああ、業を背負ったおばさんおじさんたちだなあ、と他人事でなく感じる。
いつも映画館は待つのが辛い快感。
このご時世、お菓子販売してないんですよ。
2020年。
何でAKIRAの年、ケムール人の年にナウシカ観てんのか、と結局免疫が効かないまま、ブザーが鳴って、ドラえもんの宣伝、これも業が深い。
ユパ様の「行こう……いずれここも腐海に呑まれる」から、久石サウンドと「文明崩壊から1000年ーー」のテロップ。これ、モニタじゃ小さくていつも読めなかったのに、今日はじめて全文余裕もって読めた。
なるほどなあ。これ、「映画」なんだ。
「映画館」で「上映」されることを前提にされた作品。
当たり前っちゃあ当たり前だけど、そんなことに気づきもしないで私、ボーッと生きてましたね、このセリフもなんか嫌な手垢がついてしまったけど。
で、画面・台詞・構成、すべてが映画としてつくられてる。これは発見だった。すごいぞ2020年。それだけでも時代は変わったんだなあと思う。だって信じられます? 私、初めてナウシカ、スクリーンで観たの辰野町荒神山体育館、共産党のふれあい祭りだったのですよ。現代ではあり得ませんね。はい、現代というディストピア住んでます。
で、その頃から思ってたけどトルメキア軍事大国称してるくせに艦弱すぎるよね、とか、「原作」というより「漫画版」という別物にはあえて触れずに語ってます。そっちは果てしなく沼なので。扱いきれない。
ただ、「漫画版」に比べると、「映画版」は短編ですね。いや長さではなく、構造(80年代だ)自体が。
宮崎さんの資質って、(少なくともある時期までは)短編作家だったのでは? 後半生、駄作ばかり濫造するようになったのは(少なくとも、私の目にそう映ってしまったのは。強調しておきたいけど、私の目にそう映ってしまっただけです)、「長編」を作ろうとした苦しみがもろに出てしまったのでは? などと今更に考えてしまったわけです。
で、考えてくうちにーースクリーン(大画面)見てるうちにーー感覚を覚えたのですよ(馬から落馬)。
「これは私のナウシカじゃない」
ってむろん悪い意味じゃないです。私が、時代が、世界が変わってしまった(あるいは変わらないことで変わってしまった)ということは、不変のはずのアーカイヴとの距離感・接触感が当然変わってくるだけのこと。
その、だけ、のことなんだけど、ナウシカというアイドルーー異論はあるだろうけど20世紀最大のアイドル、私的にーーを新たに見ると、異常なまでに魅力的だ。
彼女の魅力について、あの飛翔について語り始める勇気も根性もないけど、あれだけ男の願望過積載してたら、別に戦闘美少女の精神分析とか持ち出すまでもなく、みんな狂う。高橋源一郎が「ナウシカ・コンプレックス」と呼んだ数多の無名の追随者が多発するわ、それ。
で、彼女がペジテのグリックから飛び出し、メーヴェでコルベットと交戦しーーそのあたりから、やばい、と思った。
もう駄目だ、と思って諦めたのは、王蟲の幼虫を抑えてるところで、私は、泣いた。
わわわわわ。言ってしまった。恥ずかしい。ナウシカで泣く。恥ずかしい。まだプリキュアで泣いたほうが分かりやすく堂々と気持ち悪い。2020年にナウシカで泣く。何だこれ。セカチューで泣くよりタチが悪い。
「このナウシカを、かつてのナウシカとして見られなくなった、彼女は変わらないのに、自分が変わってしまったことへの哀傷」
って書いてて恥ずかしいし気持ち悪いし本質言ってない気がする。
でですね、「なつぞら」のモデルがモデルになったという「その者青き衣を纏いて金色の野に降り立つべし」のシーンで、すぅーっと、醒めました。なんかこう、「作り手の理想」が剥き出しというか、とってつけた感動誘発装置というか、よかったねー、とか。
あとはエンディングでナウシカが手を振って見送ってくれて(宮崎作品は、一時期まで必ずヒロインがまたね、さよなら、またね、と手を振ってくれてた、気がする)、ゴーグルに、終わり。
語るべきことは無限にある気がするし、事実無限に近くはあるんだけど(高一の時、「これはナウシカが出てるんだ」と自己暗示して悪評高い『ユリシーズ』・丸谷他訳を読み切ったとか、「鳥の人」って言うのに鳥が一切出てこないね、カイにクイはウマだし、とか)、いい加減疲れてきたし仕事があるので止めます。
結局何を言いたいのかわからないですが、こんな駄文を書かせてしまうほど、2020年の『風の谷のナウシカ』はそれってどうなの? と思いつつすべての人が映画館で観るべき(映画館解放戦線、という妄想……)「映画」だということです。つまらない結論ですみません。
おまけ。「テト」とナウシカが(或いはユパ様が)発話するたび、パートナーの千春さんの猫「てと」を想起させられてびくっとなる。そういえば「てと」の名を冠した千春さんの作品集がもうすぐ出るらしいですよ。『てとてと』って言うんですけどね、ご興味あれば、と言う露骨なステマで、本当におわり。
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