夏への扉(あるいは夏からの扉)

未来を発明するだろう
 

八月十五日

 終戦記念日。お盆が終わる。焼肉をする。

 現在午後三時なので、まだ焼肉ははじまっていない。肉も買っていない。ついでに焼肉のタレもない。お金もあんまりない。

 だから、焼肉はまだ完了していない。

 未来の出来事である。

 これは、「焼肉」の本質に迫る状況ではなかろうか。

 焼肉。

 肉を、焼く。

 無論、「焼いた肉」と言う完了形として読むことも可能だろうが、「焼肉をする」と言う使われ方をみても分かるとおり、「焼肉」はあるひとつの「いまか、いま以降おこなわれる」行為である。

 肉を焼く。肉を焼いている。肉を焼くだろう。

 たとえば、「しゃぶしゃぶ」「鍋」などに比べると、「焼肉」は「それをしている」ことに没頭している印象を受ける。何と言うか、完結しないのだ。

 だから焼肉は料理名ではない。いとなみの名前だ。

 それは永遠にかたちを確定させるものではないかもしれない。(作成する端から、胃腑に消滅してゆく……)。

 だからこそ、私たちは夏に「おーい、今日は焼肉だぞー」とベランダで団扇ばたばたさせながら、アロハシャツと短パンで言ってしまうかのかもしれない。ってそのイメージどんな親父だよ。少なくとも僕はやってないわ。そう言う服装はしてるんだが。

 などと言うことはどうでもよかった。とりあえず、「焼肉は、それ自体不確定性をはらんだ、永久に叶うことない未来である」と定義づけておこう。

 何しろ、「どこの店で一番安く肉が買えるか」と言うことを、チラシおよびチラシサイト引っ張り出して検討しているさなかなのだ。

 さあ肉をきちんと食えているのかどうか、四時間後の自分たちがどうなっているのか、そのためにこそ想像力はあるのだろうけれど。

「これは私の肉である。取りて食え」、か……。知り合いの聖餐式で用いられたのはフジパンの切れ端だった。示唆深い話ではなかろうか。終戦の日、八月十五日。

  

  啄木の手など構造主義者見る  大祐

コメント