夢が何重に構造化されていたとして、なぜ〈見る〉と言えるのか |
八月二十七日
千春さんがそろそろ生理日。この二回ほど月経前症候群があまりひどくなかったのだが、さっきから「頭が痛い」と僕の部屋にやって来て、「氷枕持って来て」と言うので、冷凍庫から出してくる。
彼女、アイスノン敷いて、今は静かに寝ている。
一度、ふっと目を覚まして、
「悪夢を見てた」
と言った。
「どんな夢?」
「パソコンで転居届押しちゃって……」
とまた眠る。フロイトを持ち出すつもりはなく、僕は言葉の意味を考える。考えて意味がないことに気づき、やめてとりあえずブログ書く。
千春さんは50センチの距離で眠っている。
眉をしかめたり、足をびくっと震わせたりしている。人間は眠る時もけっこう忙しい。
「うわああっ。何時? 何時?」
といきなり目蓋を開いて驚愕する。起きても人間は忙しい。人間は暇に耐えられるようできていないのだろう。
台所でスイカバーを一本ずつ食べる。
彼女のルーツは八色スイカの本場だ。
「子供の頃、スイカには不自由しなかったでしょ」
「うん。だからスイカバーに憧れた」
「1970年代の伊那谷には、〈西瓜〉と言う概念自体が流通してなくてのう……」
老いた僕はあの稀少で、しかも甘味もわずかしかなかった西瓜を回想する。もっと本格的に老いたら、僕は何を回想するのだろうか。そのとき僕たちは僕たちでいられるのだろうか。
僕なら彼女を救える、より、僕を誰か救ってほしい、の方がタチの悪い傲慢だ。
ちゃんと季節は巡り、僕の時間は削られてゆくのだから。
〈周期〉と言う、時間が彼女にとって苦しみなのかもしれない。そう思うのも、僕の傲慢だ。
夜風が冷たい。ポルトガル語が聞こえない。夏は終わる。今日は日記を書いた日だった。
ソビエトの衛星と半月を見た 大祐
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