赤い河、に関する個人的なおたより

「やっぱり、お前は甘いな」(映画『赤い河』より)

  こんばんは。

 2020年8月29日の深夜の十二時半、誰にあてたわけでもない私信です。

 そこにいるあなたが誰なのか、僕は知らない。だから僕は僕の知らないことを書きます。パラドックスとして成立しているでしょうか。自信はありません。自信を持ったことなんて、ついぞなかったような気がしていますが、それも歪んだ自信なのでしょう。

 金曜日の夜、八時頃までは日本語の子供の声が聞こえます。夜十時になると、決まって女性のポルトガル語がこちらまで響いて来ます。何を言っているのかわかりません。ジウジツという単語が含まれているかどうかさえ、僕には全くわかりません。

 これは金曜日だけではありません。毎晩です。それで神経が参っているとか、そう言うことは微塵もありません。

 僕は救い、のようにして日本語以外の言語を聞いています。(人は理解不明なものに天使の名を冠したがる……)。ブラジル人の女性の顔を、たぶん見ることはないでしょう。それくらい夜というのは何もかも見失ってしまう、あるいは見えすぎてしまう暗闇なのでしょう。街灯は、点いています。

 聴覚のどこかを他言語にとられながら、『赤い河』を習慣のように見ています。

 牛牛牛。犇く、という言葉はこの映画が発祥なんじゃないかと思うくらい牛がこれでもかと押し寄せてきますね。

 ジョン・ウェインもモンゴメリー・クリフトも実はどうでもよくて(父を乗り越える息子、というテーマはごく表層的なものに過ぎません)、これは単に「牛を写したかった」だけの映画という気がします。

 それにしても人はなぜ群れ、というものに惹かれるのでしょうか。牛の大群が死に向かって(食肉とされるわけですから)、犇いて歩く姿に、人はなぜこんなにも快楽を覚えるのでしょうか。

「人間は群れが好き。しかも常識を外れた群れが好き」

 という頭の悪い結論を導き出しますが、それはあながち要点を外していないと信じています。

 数、というものがつねに無限に対して広がっているなら、群、というものは(この映画においては省略を被った1万頭の半端な不在において)、あるはずもない「永遠」を保証しているような気がするのです。

 それは必ず死する僕にもあなたにも、何かを保証するのだと、B級の新興宗教の託宣くらいには信じています。

 歴史はずっと変わってゆくけれど、僕が変えたわけではありません。あなたが変えたわけでもないのです。こんなことを言うと怒りますか? あなたが誰だかわからないので忖度のしようがありません。とりあえず謝っておきます、ごめんなさい。

 思うのは、ひたすら画面を埋め尽くす牛です。

 それと訊きたかったのは、ナレーション替わりに挿入される「手書きの旅の記録」です。あれは誰が書いたのでしょうか?

 ウェイン? クリフト? それ以外の誰か?

 その書記者の位置を定めることによって、今日からも混乱するであろう日々に、ポルトガル語を聞き続ける晩夏に、揺るがない位置を定められるような気がするのです。

 物語上も現実(!)上も、牛はすべて食べ尽くされてしまったのでしょう。

 僕は経済的な理由から、とうぶん牛肉は食べられそうにありません。

 だから僕は、『赤い河』のスタンピードを、こよなく安らかに見ているのだと思います。

 書けば書くほど、自分の心をすり抜ける駄文を、あえてあなたへの私信にします。

 誰に届けたらいいのかわからないまま、ただ、夜の重さに(軽さに)耐えきれず(相当の多幸感を覚えて)、ブログを書きました。

 届かなくたっていいんです。この場所から立ち去りたい、だからダンスンたちも旅に出たのでしょう。僕はこの部屋で書き続けます。たとえどんなにガラクタに満ち溢れた部屋でも、犇く牛は空白を埋めてくれるのですから。それがこのテキストを書きたかった衝動になったのかもしれません。

 明日がきます。夜分失礼しました。この私信を受け取った人はすぐさま忘れてしまってください。

 空白恐怖症の、治療を当てずっぽうに——。おやすみなさい。良い夜を。

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