バベル—17

〈言葉と物〉と〈物と言葉〉のあいだに、圧倒的な空隙

 

八月三十日

 とは言え、生きてるかぎり人は生きてけるもんである、と思いながら「ごしたい」体を寝床から起こす。「ごしたい」というのは方言。疲れた、とか、だるい、の意味が濃いが、もっと疲れてだるくて重くて何もする気が起きないというか、とにかく「ごしたさ」に満ちた言葉なのである。言葉を使うのは難しい。

 アニメ映画『歎異抄をひらく』のチラシが入っている。

「古典の名著『歎異抄』初のアニメ映画化!」

 という謳い文句に「そ、そりゃそうだろうけどさあー」とくらくら来る。これがパワーワードという奴か。

 でもよく見ると「原作:高森顕徹『歎異抄をひらく』」とある。それ『歎異抄』じゃないじゃん! とこけるが、ふーん、キュアアンジュの人が出てるんだ、と一瞬見てみたくなる自分を「何か」が制止する。監督名を読んでしまったからかもしれない。監督、うーん、微妙な人選。別に嫌いではないのだが(好きでもない)。

 とは言えアニメは文章と違って「画」にしなきゃならないから大変だ。(逆も真なりではある)。

 親鸞上人がらみで言えば、中学生のとき、吉川英治の『親鸞』読んだ。「つまんねーなー(中学生の感想です)」と思いながらページを繰っていたのだが、「おおっ」と思う箇所があった。

 源義経(牛若丸の頃の)が出てくるんである。義経と言えばイケメンイメージが流布されているが本当は出っ歯の醜男だったとか、その辺の議論は喧しい。どうすんのかな、と少し心配していたら、吉川英治は実に見事な描写をしていた。

「反っ歯気味の美少年」

 おおお! 何というアウフヘーベン! これ以上ない表現の妙である。「文章というものの強さ」を思い知らせていただいた。これ、映像化できないだろう。もう一度味わってみよう。「反っ歯気味の美少年」。今日は個人的にパワーワード祭りである。親鸞がらみだからだろうか。親鸞、パワーワード噴出上人だし。

 で、川柳書きっぽい観点からだが、吉川英治、何かって言うと「はじめは川柳書いてた」って言われるじゃん?(柳号は「吉川雉子郎」)。だけど、「これが雉子郎の代表句! 傑作!」ってあんまり紹介されないよね。せいぜい貧しさの果てにもう笑うしかないよ、みたいな、いかにも井上剣花坊の時代のいかにも句が一句引かれるくらいで。

『宮本武蔵』(若い子には、『バガボンド』の原作だよ、って言ってももう通じないのかもしれないとふと思う)だって、バカ歴史小説ちゃあバカ小説だけど、それと同じように吉川英治(雉子郎でもなんでもいいけど)が、川柳作家として卓越していたとは、僕には到底思えない。

 それをなんか、己の手柄みたいに「あの吉川英治だって川柳を書いていたんだ!」って誇る川柳業界って、なんか、こう、貧乏くさい。(貧乏より貧乏くさいほうが情けない、とはナンシー関の言葉だったか……)

 いやもちろん、僕の知り合いの川柳関係の人に「吉川英治が……」なんて呑気に言ってる人はほぼいない。けど、たまにいるし、僕はその人はともかくそういう発言はかなり好きじゃない。

 いい加減、数少ないアイドル持ち上げて、自分のポジション上げようとすんのやめようよ。そりゃ、本泉莉奈めあてに映画見そうになるボトムズもいるけどさ……と大幅な脱線から還る。今日は狭い業界へのぶすぶすとした不満になってしまいました。コップの中の親鸞です。物を投げたまえ。


  陽高しと嘘を物体Xへ  大祐


大人にも子供にも使者にも都合がある


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