幼年期の終わり

人間的な、余りとしての人間的な

 

九月十二日

 二日間、ブログ書くのをさぼってしまった。さぼる、ってサボタージュする、って外来語の日本語化だから、江戸時代には使われてない、はず。たぶん。

 だから時代劇でも「婿殿! さぼってるんじゃありません!」とかせんさん言ってない、はず。たぶん。必殺(仕業人のBGM好きです、どうでもいいけど)を基準に観測するのは、明らかにサンプル間違ってるが。花屋/鍛冶屋が普通にリーゼントしてる世界だから、あそこ。

 でも「さぼる」が日常語化してない世界で、「さぼっている」事態を人はどう表現していたのだろう。「さぼる人」と言う存在は確かにあったはずで、それなのに「さぼる」という言葉がない。無論、「さぼる」に該当する言葉はあったのだろうが(文学科出てんのに、その言葉が出てこない。怠惰な学生だったとは思うが、近世専門じゃなかったので、言い訳)、それは「さぼる」ことではない。

 僕たちが今している行為、いや行為とすら認識しない「何か」を、後世になって「〜る」と呼ぶ日が来るのかもしれない。(現時点で代表的なのは「萌える」という行為だ、認めたくないものだが)。

 未来から見て、僕たちは、どのような枷をはめられているように思われるのだろうか。

「2020年の時代の人間って、〜るって言葉知らなかったんだぜ、フリーじゃねえよな」

 みたいな。だが枷はどちらにはめられているのだろう。

「さぼる」が無かった時代。

「さぼる」が存在してしまった時代。

 それぞれの規定。

 まあ、どちらでもあんまり違いはないのかもしれない。言葉がある限り。言葉をいつか人間は放棄する。その時やっと人間はステップアップ、あるいは滅亡をするのだろう。(ファーストガンダム的な思想……ファーストガンダム、なんて言葉も昔は無かった)。言葉を守れ、なんて言うつもりはない。そんな寝言が言えるのは、一度も言葉で死にかけたことがない睡眠者だ。いや僕の言ってるのも大概寝言だが。

 ただ、言葉なんて捨てちまいたいね、とはたまに思う。自分が口先だけの人間であるからだし、こうやって書いた文章の中身も、すかすか、だからだ。

 ところで、すかすか、って外来語なんだろうか。別にそれで悩んでないけど、少しは悩んだほうがいいのかもしれない、二日さぼったら夜はすっかり秋の音。


  みずいろの具体がせまる記号国  大祐

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