溺れた巨人

二つの時間が同時に有ったとして、立体視は可能だろうか

十一月二日

 午前四時。日付に十一月一日と入れるべきか迷って、結局二日にする。昨日(間違いなく昨日だ)ブログ書いとけばよかった。ささやかな後悔。

 後悔といえば、昨夜、身体中疲れきって22:00ごろには眠ってしまったのだった(ヴァン・ヘイレン聴きながらだったが、どの曲も全く覚えていない)。夏雲システム使ったクローズド句会の締め切りが23:45。前後不覚に眠っていた。もっと早く提出すればよかったのに、今になって胸のあたりでじくじく痛む後悔。

 後悔なら他にもたくさんある。

 というより、あるひとつの後悔が大きすぎて、今の自分を見失ってばかりだ。

 あの時ああすればよかった・しなければよかった・せめてあれさえしておけば・あれさえしなければ。

 考えだすと気が狂いそうになる。

 それでも地球は回っている(ガリレオはこの台詞を言わなかったという説は、どんな挿話にもまつわる「いかにもありそうな」優越感に満たされた台詞だ)、僕は僕として生きていくしかしかたがない。

 逃れるように、「後悔とは何か?」を考えてみる。

 本来あり得たはずの自分と、現況が違う。その原因として、「取り返しのつかないことをしてしまった」と前提を立てる。

 この「しまった」は過去なのだろうか。

 あの時にああしておけばよかった、という感情は、「現在」を起点にしなければ生まれないはずだ。過去にはその誤った(と感じる)選択しか選択肢がなかったはずなのだから。

 どうしようもなく僕らは現在と過去を混同してしまう。過去を現在から裁いているはずが、いつの間にか過去から現在を裁かれていると錯覚してしまう。

 すべての人へ。

 悔いを持たない人などいないからすべての人へ。後悔は悪いことじゃない。ただ圧搾機にかけられたほど苦しい。このまま行けば発狂するとわかっているくらい苦しい。

 だからすべての人へ、いやそもそも自分ひとりへ。現在を無理に肯定しようとするな。現在はまた過去になる。現在の苦しみは過去に原因が有ったわけじゃない。現在が過去の原因なのだから。

「もう会えない」

 というのはいつか会えることを懼れる感情だ。未来を懼れれば現在は永遠の胎児のごとく守勢に回るしかない。それの担保として過去(などというものが有ったとして)への「囚われ」があるのだと思う。

 何年も昔、後悔で眠れない晩、プロレスゲームをCP同士で戦わせて眺めていた。自分でエディットしたレスラー(それも地味なスリーパーばかり使うやつ)が延々とつまらない試合を繰り返すたび、試合が終わればレスラーは過去を覚えることなく、また同じデータで次の試合に馴れ合うのを眺めるたび、現在しかない情報の錯綜を眺めるたび、僕は何かをあきらめて眠っていた(あきらめることさえ不感のまま眠っていたのかもしれない)。

 今の部屋にブラウン管モニタがない。プレステもDVD-ROMも、メモリカードごと捨ててしまった。それは少しだけ悔いているが、大した後悔ではない。

 お前がしたかったことは(過去形!)、絶対に叶うはずもないことだった。だからこのくだらない現在を無理に肯定しようとするな。それは過去を歪めさせる。

 たぶん結論など出ないで、今夜も後悔にえぐられるのだろう。そんな未来の図を描くことは救いのひとつではあるかもしれず、もう朝が始まろうとしている。

 それにしてもクローズド句会、出しておけばよかった……。


  t.a.t.uらがそれぞれ象の両眼に  大祐

コメント