恋人たち

もはや感情さえ通り越して


十一月三日

 文化の日。千春さんと交際が始まった日。その日のことは絶対に忘れない。

 そもそも出会った時、千春さんは僕を見て、「頭のなかで鐘ががーんがーんと鳴った」というくらい運命的なものを感じていたらしい。それでも、千春さんはその感情を「恋愛ではない」と否定していたそうだ。

 彼女は女性が好きで、その時も意中の人に振られたばかりで、「さあ女性の恋人を探すぞー」と意気込んでいたところに、僕がにゅっ、と現れたらしい。

「あー、綺麗な女の人がいる……」

 と千春さんは僕を見て思ったらしいが、その時点で何か間違っている。当時僕はもう30のむさいおっさんです。

 さすがに、

「いやこれは男の人だ。男を好きになるなんてあり得ない」

 と思い直したらしいが、僕は彼女の葛藤に全く気づかず、「ああ、顔の赤い女の子だな」くらいには思っていた。

 たまたま通っていた病院が同じだったのだが、何の運命も感じなかった。

 で、知り合ったのが川柳のグループだったのだが、当時僕は精神的に不調で、句会を休むことが多かった。

 そうしたある日、千春さんから電話がかかってきた。

「川合さん……川合さんが句会来ないのって、私が嫌いだからですか……」

 純真な、はかなげな少女の声。

「いや、そんなことは全くない」

 僕は「この小さな女の子」を泣かせてはいけないと思い、以後頑張って句会に出るようにした。しかし、千春さんの好意には、まっっったく気づかなかった。

 後で聞いたら、千春さん、周囲に「何で私が男好きにならなきゃいけないのよ!」とキレまくっていたらしい。

 それからしばらくして、千春さんの紹介で同じ職場に勤めることになり、「なんだかこの子、僕に近づいてくるなあ」とは思っていたが、恋愛感情があるとはまっっっっっっったく気づかなかった。「川合さんって、ちょっとふっくらしてますよね」と言われて(当時体脂肪率が多めだったので)傷ついたりはしていたのだが。

 で、そんな日々の中で、千春さんからメールがあった。

「わたしはあなたにひかれています」

 僕は思わず布団に体を投げ出してしまった。「うわー、どうしよう」というのが第一の感想だった。人から恋愛感情を持たれて、じゃあこの人とどうやって付き合っていけばいいのか、そもそも恋なんて面倒臭いことをまたやりたいのかどうか、自分でもどうしたらいいのかわからなかったのだ。

 そんなわけで、千春さんには「いや、僕は千春さんが大事だけど、友達としてであり、この友情を壊したくないから云々」という婉曲な断りの電話を入れた。よく考えなくてもひどい男である。

 しかしその時はじめて、「千春さん、僕のこと好きだったんだー。意外ー」と気づいたのだから、鈍いにもほどがある。後で聞いたら「この人は押しても引いても、何にも気づいてくれなかった」と恨み半分で言われた。ごめんなさい、人が自分に恋愛感情を持っているかどうかの、センサーがぶっ壊れているか、はじめから「無い」のです。

 それが八月のこと。

 季節はめぐって十一月三日。

 まだコロナなどなかった世界。

 公民会で文化祭があり、川柳のグループも出品していたので、二人で一緒に片付けに行くことになった。

 千春さんは自転車を引き、僕は徒歩で、横断歩道を待っていた。

 彼女が言った。

「やっぱり私、川合さんのことが好きみたいです」

 真剣な表情だった。僕は「やべー、逃れねえー」と思った。つくづくつくづくひどい男である。

 とりあえずその場を取り繕おうと、

「僕も、千春ちゃんのことを大切に思っているよ」

 とごまかそうとしたら、

「じゃ、成立ってことですね!」

 と千春さんが強引に試合を決める大技。カウント3。かくしてカップル成立。僕は「あれ、え、そういうことなの?」とまだ決心がつかなかったのだが、完全に千春さんが「その気」になっているのでしゃあないか、まあ、と思っていた。どう思いますこの男? 相当ひっっっっっどい野郎という感じがするのですが。

 で、文化祭の片付けをして、その後懇親会。オードブルが出るのだった。

 毎年文化祭はやっていたから、片付けのたびに懇親会という名の宴会が開かれる。年を経るに従って、僕も「ご覧千春ちゃん。僕らのためにみんながお祝いの会を開いてくれているよ!」とアホなことを言うようになっていた。千春さんは「馬鹿」と冷たく返すようになっていた。

 そんなわけで十一月三日の文化の日が、「付き合いはじめた記念日」であることは忘れない。

 もうかつての川柳のグループを二人とも離れてしまったし、懇親会もやらなくなったらしいし、第一文化祭自体を今年はやらない。

 今年、

「二人でお祝いしようか?」

「うん。焼肉がいい!」

 と言うわけでできるだけ安い肉を買ってきます。

 昨夜、千春さんに「僕を押し込んでくれてありがとう」と感謝の意を表したら、「……あなたは押しても引いても、にぶすぎて大変だった」と述懐していた。すいません、本当にはじめはそんな気はなかったんです。でも今僕は千春さんがいないと生きていけません。都合がいいと言うか、かなり最低の男という感じがする。

 何はともあれ丸14年。よく付き合った。この一年、千春さんは目に見えて綺麗になった。それとの因果関係はわからないが、あの時言わなかった(そう思っていなかった)言葉を言おうと思う。

「僕は、千春ちゃんが、好きだよ」

 今更虫のいい話だろうか。でも2020年11月3日の朝、確かにそう思う。彼女に自室の加湿器をぶっ壊されても。僕たちは、夫婦だ。

 そして、僕は、馬鹿である。


  前回り受け身で妻を表現す  大祐

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