なつかしい闇の、記憶をブラックアウトする |
十一月十四日
どうしようもない無力感を覚える。
自分を粗末にしてばっかりだ、と言う暗いことばっかり言っていても仕方ないので、どうでもいいプチ情報を。
昔、ユーライア・ヒープのCDを買ったら、どう考えても‘Echoes in the Dark’とあるべきところを、ライナーノートに、思いっきり‘Echoes in the Park’と記されていた。
公園からの声! わはははは。大笑いだ。しかしそれはそれで詩情あふれていないこともない。(そうかあ?)それによく考えたらPark も夜になったら Dark だ。現在深夜二時半。Park はDark である。だからどうした。
結局、自分がやりきれないんですよ。DとPの違いなんて、どうでもいいんです。それを独笑してる自分がなんかこう、重たいな、と思って。
本当は自分、ってものを抜け出せたらいい。
自分は自分の檻だと思っていた。
みずからを閉じ込める固い牢獄。
他人と接する時も厚い鉄扉越し。
今はあんまりそう言うふうに思わない。
自分が少し成長した、と言うより老化したんだろうが。
それでも、「自分」なんて実は軽い物じゃないか、って思えたら、これ檻にしてたのは「自分」じゃん、とやや気づいた。いやそれにしても「自分」に拘るんですけどね。
あー。それにしても「自分」のない国に行きたいよ。と書いてそれは嘘だと気づく。自分の中にいるのが大好きだから、アリバイみたいに「檻」とか言ってるんじゃないかと思うこの頃。
早い話、自己中心なんですよ。
劇画『タイガーマスク』みたいな死に方をしたい、と言っていたことがあったが、あれは究極な自己中心だ。(わからない方、申し訳ないですがググってください。ググる、の意味がわからない方はググる、をググってみてください。自己本位な説明)
もし、自分に自分だけれど自分でない命が授かったら、と考える。
まあ、子供ができたらの空想なんですけどね。
それはそれで僕のエゴという感じもする。
でもこの世の中はわからない。誤植だらけの世界で、僕は僕の誤植と一生付き合っていくのだと思う。
ちなみに‘Echoes in the Dark’、Parkか知れんが、曲としては好きです。
地動説でもないが銀河に飛ばされそうだ 大祐
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