成長の儀式

底を流れるものの、底のさらに底、そして

 十二月三十日

 満月。

 雲に隠れて、ぼうとした明るみだけが澱んでいた。ベランダの風は激しく冷たかった。

 満月といえば『満月(フルムーン)をさがして』。

 桜塚やっくんが「エンタの神様」に初登場したとき、「え、タクトの人だよね!?」と情報源を検索しまくったのも良い思い出だが、『こどちゃ』の倉田紗南役を演じた小田静枝さんが、DJ「小田さん」としていつの間にか準レギュラー入りしていたのも何もかもが皆なつかしい。

 そして、そんなアニメの話をしてしまう自分がとても虚しい。何を譫言してんのかわかんなかったでしょう。そういうアニメがテレ東であったのです。テレ東という単語で何かを察してください。そもそも満月をさがして、世人男性が(あくまで男性が、というところを強調しておきたい。微妙で粗雑な論議に繋がるのを意識しつつ)見るもんじゃねえよなあ。僕は当時とっくに二十歳越えていたはずだが、あれ、そもそも何年前の話だっけ? 21世紀にはなってたよなあ、と時間認識の不確かさにびびる。

 エヴァが25年前のってさあ、とはよく言われる歴史学だが、『ガンダム』から『パトレイバー』まで10年経っていないのが、いまだに自分の中でどう処理したらいいのかわからないもどかしさとしてある。時間をめぐるもやもや。

 時間が、いつも不思議だった。

 「時間」が「物」を介するということ、それは子供のころから漠然と思っていた気がする。気がするが、漠然としたまま思索を深めず、学ばずで、結局この歳まで「時間」について何の悟りも開けないままだ。

 自分がいつか死ぬこと。

 その時に(時に!)、「無」という「物」はどういう「もの」なのか、考え出して、怖くなって泣き出していたのは小3くらいだったか。「物」も「時」も存在しないということ、その「こと」すら存在しない、という存在すら存在しない(以下無限リピート)、と脳がオーヴァドライヴしてしまったのだった。

 その後図々しくも大人になり、軽々しく死を口にしたり考えたりする。ガスコンロの換気扇をつけずに立っていてみようかな、などと思う時、そこには子供の頃の(決してピュアではなかったにせよ)一生懸命な想像が抜け落ちている。

 満月はまた欠ける。『満月をさがして』は死をめぐる話だったし、死神役の声優さんは二人とも亡くなられた。

 だから今日、雲と風の冷たさを言い訳に、僕は月を探すのを逃げたのだった。今日は月をたまらなく見たいと思った。同時にどうしようもなく見たくなかった。

 2020年が終わる。この年が何かのメモリアルだなんて、これは疑いなく思いたくない。

 ただ、僕は僕を檻だと思っていた。「必ず死ぬ」という時間の檻。そこから抜け出ることは、少なくとも死ぬことじゃないはずだ。僕は自分で自分をころすことができないまま、人生を終えるのだと思う。すっかり老衰して、「ふ、ふるむーんをさがしてがのう」とか譫言を言い出す老爺になりたいものだ。どうでもいいが「ろうや」って打ったら「牢屋」って出てきたので、今夜のオチとする。オチって死なの? 死はそんなにたくさん(あるいはひとつのみでは)ありません。


  蟹味噌をナイチンゲール歿すまで  大祐

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