重力への挑戦

「見えて」しまうものばかり

 一月六日

 子どものころ、「思いこんだら試練の道を」を、「重いコンダラ」と間違えていた、という現象は通過儀礼というか都市伝説というか、とにかくよくあるマクラだが、三浦雅士は「いつしか年も、すぎのとを」を「塔のようにそびえる巨大な樹」と思っていたそうだし、それに続けて、蓮實重彦も「あけてぞ、けさは、わかれゆく」に「ゾケサ」なる「奇怪な動物の行進してゆくさまを思い浮かべていたのだという」と引用している(三浦雅士『身体の零度』)。

 そういや藤枝静男は、

  金剛石も磨かずば

  珠の光は添はざらん

 の「たま」を「金玉のことであると一人合点で思いこんでいた」そうな。成程思いこんだらそうなるよね、重いコンダラ現象証明終わり、ってこれはやや意趣が違いますね。たぶん。

 三浦さんや蓮實さんのような偏差値の高い人のことはよくわからないが(反知性主義)、「重いコンダラ」に関しては、あの『巨人の星』のOPの映像と音楽が相まって作用しているのではないか。

 ボロ服で寒中を走る親子、それに被せてあの「重い」旋律。そりゃあ重いコンダラ引いてる感じにもなるでしょ。確かローラー引いてたんだっけ? 曖昧な記憶。その曖昧さが一層この「感じ」を伝える証左にもなると思う。

 それはともかく。

 人はなぜ、こんなにも「重いコンダラ」を愛するのだろう。

 日常、「親父ギャグ」を厭う人が、嬉々として「あれ、コンダラと思っててさあ〜」と語る情景を、僕もあなたも一度ならず目にしたことがあるはずだ。

 おそらく、そこにあるのは「世界が裏返されたような快感」であるかも知れず、同時に「コンダラ」という言葉自体の快感でもあるのではないか。

 見ていた世界が「実はそうではありませんでした」という「奇妙な味」の眩暈、それをもたらすのが「コンダラ」という、意味を超越した意味のある発音である、その物体性に僕たちは快を覚えているような気がする。

 ギャグは真面目な顔で提示されるほど効果的である。(事実、『巨人の星』はそういう消費のされ方をして来た——クリスマス回とか)。作品において「テーマ」というものほど「真面目」に提示されるものはないだろう。その凝縮である、神聖にして犯すべからざる「テーマソング」が覆される、しかもおよそくだらない発語である「コンダラ」によって。こんな愉快なことはそうない気がする。

 で、「テーマを覆す」について言えば、「作者の死」からもう逸脱して、亡骸をほじくり出してカンカン踊りさせている感はある。

 テーマの神聖なる支配/被支配については語り出すととめどなくなるので割愛! というかできたらまた今度! ともかく、だからテーマなんて決めない、というのも戦略だが、それもテーマになってしまう、という罠が待ち受けているのだよ小林君。ふはははは。

 そんなわけで僕は川柳を作るとき、あえてテーマを決めるようにしている。それが如何なるものか、ここだけの話で言ってしまうと、

「思いコンダラ」

 である。意味なんて信じないでください。2021年最初の日記でした。


  泣くおとこ肺魚の家も模型なり  大祐


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