九百人のお婆さん

 

すべての人を人たらしめよ——悪意もて

六月十三日

 深夜十二時を回ったのでこの日付にしているが、おそらく今日中にもう一度書くと思う。神聖な、という言葉がどれだけ神聖さを涜しているか承知の上だが、今となっては「歴史」の範疇に塗り込められてしまった人間の忌日である。名前を三沢光晴、本名三澤光晴と言った。

 彼に書くべきこと、書かざるを得ないことはとどめがない。けれど今は書かない。僕には書く資格がない、などと怯懦の言い訳にしかならないことは言うまでもない。彼は死んだのだ。12年前に。人は死ぬ。ただそれだけのことなのであるし、僕もあなたも死ぬ。ただ、人の死を見てしまった時に、なんの化学反応がおこるのか(涙でも凶笑でも無関心でもいい)、ひどく自分には心があってしまうのだと思う。捨てちまいたいと思いつつ。

 昨日まで隣村のゲストハウスに泊まっていた。何もしない時間が欲しかったのだ、と気づいたのは何もせず、何も考えず横たわっていた瞬間だ。建物はひんやりしていた。僕はこの時のことを(やれやれ)と思いながら一生思い出すのだろう。あるいは意識的に忘れた状態で日々に追われるのかもしれない。それはそれでいい。

 宿の隣に小学校があった。

 曲名を知らないアニソン(というものが増えた)がスピーカーをがならせ、「〈入場〉とはかくのごとくです。〈退場〉とはかくのごとくです」と教師が柔らかく絶叫していた。運動会の練習だとわかった頃、山田風太郎の「叛旗兵」を読んでいた。

 運動会の練習が何の役に立つ——そんな駄言に与するほど腐ってはいない。少なくとも捕虜収容所の配膳を待つには参照になるだろう。皮肉ではなく。じゃあ何なんだ、と訊かれたら僕の悪意としか言いようがない。時として悪意は皮肉より優しい。

 「叛旗兵」が初読だったかわからない。それでも最後にはやはり主人公たちが死ぬ。山風だからね。死は完結ではない。角川文庫には中島河太郎の解説が金魚の糞みたいにこびりついている。それはそれで良い。死が見られるのは死んでいないものだけだ。おまけに死からはみ出すバリエーションを「読む」ことができる。それは傲慢なんかじゃない。死を見られない僕らにとって、それは慰みとジョークに似たシリアスだ。シリアスを突き抜けた、いや本当は突き抜けていないからの悲劇/喜劇。その両者を分つものは文字通り無しか無い。

 六畳間には風が入ってきた。子供達の歓声。子供達の「ありがとうございました!」という過剰気味の唱和。

 彼女ら彼らはしばらく(おそらくは)生きてゆくのだろう。だからこそ死に極度に怯える児童は必ずいるはずで、残酷な言い方をすればその懼れは有限であるけれど永遠に思えるほど続く。

 だけど安心して欲しい。永遠は無い。

 同時に永遠はただの永遠でしかなく、ただそこにある。

 君たちが「ありがとうございました!」と絶唱する相手はたぶん校庭にはいないはずだ。どこにいるのか? どこにもいない。だから人は作りあげる。作品でもあるだろうし作品にすらなることを拒むもの。いずれにせよそれは君の外にある。君はそれを見る。同時にそれに見られている。それだけの話で教訓談にもなりはしない。

 六畳間は六月の寒ささえ感じた。僕は何もしないで死に進んでいた。それの是非は問うまい。ただ、何にも目的がない一時間でも、あることは「ある」ということの幸福だ。悲しいとは思わなかった。今日は川柳を百句以上作って600ページの本を読んだのだから。それは「何もしない」時間が同日にあったからなのだと思う。

 小学校の練習はとうに終わっていて、下校を知らせる放送委員会の声がひび割れる。

「今日は一日、どんな日でしたか?」

 問われ、窓を閉めに行った。方角的に夕焼けは見えなかった。今日はもうわからない。明日はこれから知ってゆくことができる。

 すべての子供達に、幸あれ。ジャック・ダニエルは薄かった。


  すばらしい法則だった卵割れ  大祐


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