あなたにここにいてほしい、あなたでなくとも |
九月二十二日
今日はおそらく何かの日なのだろうと証拠もなく思う。思うということを疑いえない、などとコギト・エルゴ・スムを引き合いに出すまでもない、ただ僕はぼんやりと、あるいははっきりと今日が何らかの日、すなわち今日が何かと関係してしまった日なのだと思っている。そこに格別の証明がいるわけではない。
あえて論法を立てるなら、
①今日は人間に存在する
②人間は何かに関係する
③従って、今日は何かに関係する
などと書けないこともない。それにしても蕪雑な論法だ。暇な方は論破しちゃってください。論破は単なるゲームに過ぎないとしても、ほらあのなんだ、近頃eスポーツとかあるし、という戯言は関係がない、という関係の下にある。
まあ別に殊更言うまでもなく、すべては関係のうちにある。
などと言ってしまうとあの懐かしい忌まわしい強烈な80年代が馥郁として来そうだが、その時代があったから今があるわけで、それを否定してしまうこと、いや否定自体はとてもポジティヴな行為だったか、むしろ真逆の行為で「なかったことにしてしまう」のは勿体ない。「折角あんなトラウマがあるのに何で無視するかな」と言う素朴な感想だが、しかし無視・忘却・隠蔽というのもまた積極的な「関わりかた」以外の何物でもない。正統であれ俗流であれフロイトの基本。
結局のところ、人がいる(ある)は何かと関わることでしかないのだが、こんなことは少年漫画にだって描いてある。最近の少年漫画読んでいないので知らないが。鬼滅の女の子は巻物咥えたくノ一だと思ってました。もう時代なんて追えません。
で、「関係」と漫画を少し考えてたら、たとえば吾妻ひでおに代表される「ギャグ」に辿り着く。いや吾妻先生でなくても構わないのだけど。
ギャグって関係の上にしか存在(うひゃ)しないし、逆もまた真とまでは言わないが、関係は常にギャグの上であやうく成立している。
嘘だと思ったら何でもギャグ漫画を取り出して、「関係」をフレームとして読んでみれば瞭然のはずだ。そこにギャグ漫画としての優劣がある(この優劣は、どう言い繕おうと厳然と存在——うわわ——する)。
で、何が言いたいかというと、いきなり文体畏まりますが、僕は川柳書きだから川柳のことしか書けないんですよ。川柳が「関係」を書くものだとするなら、やはりそこには「ギャグ」に結実してしまう何かがあるはずで、でもその優劣は、少なくとも自分の中ではあるわけです。
つまり、世間で思われてる「川柳のギャグ」、たとえば「誕生日 ローソク吹いて 立ちくらみ」、あえて句ぱあで記したけど、その手のヌルさがもの凄く我慢ならねえんです! ギャグしたいならギャグに命張れよ! ローソク吹いて立ちくらんでればそれはそれで命張ってるのかもしれないが、じゃあそこから先のどこへ行きたいんだよ! とか衝迫的に思う。
思った先に自分の句のギャグはギャグとしてどうなんだよ? という精神的に追い詰められる自問が待っているのでこれ以上は考えない。結局、自分がいる世界のことは自分が思ったことにしか関係できないんだよ。
ということを思った日だった。
あえて今日が何の日が調べない。ツバ攻撃つながりのロジャー・ウォーターズと永源遙の共通の誕生日だったら大笑いだが、絶対そんなわけねえだろうなあ、と証拠もなく思う。
急募する伊藤かずえの芋漬け師 大祐
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