10月2日では遅すぎる

喪失をしない、できない、させない、という喪失

 

十月二日


 毎年、10月1日では遅すぎる、ってやろうとして挫折してる。日本時間の今は10月2日。遅すぎる。いやフレッド・ホイルのネタが今時通じるのかどうかという問題はあるが。問題はあるが興味ある人はググってくれるので無問題! ネットの九割は嘘です。という言説もネットに書いてあったので、今日は暑い秋だとおもいます。あるじゃーのんのおはかにお花を、ってそれは全然違う。

 まあホイルとか読むと、小説、って何なんだろうと考えてしまうことがないわけでもない。凄い俗な話だけど、「小説」って商品として流通できてるよね。いや待て。そんな断言が不可能なほど、無茶苦茶色んな問題が纏わっていることは承知してる。

 だけどさあ(なぜか馴れ馴れしい)、川柳に比べたら、利益、月とすっぽんだよ? すっぽんって「食べてくれ」と言わんばかりの語感だけど、それはこの際無視! という脱線がうまくない。脱線がうまい作家というのは確実に存在していて、それは作家としての技量というより単に適性という感じもする。

 脱線のプロフェッショナルと言えばこの人、後藤明生をここ数ヶ月、電子書籍でずっと読んでた。後藤明生と電子書籍って、なんかトゥー・マッチじゃね? チキンカレーライスにクラフトビールみたいな。例えが下手だし今減量中なので食い物が出てくる。力石のかじるトマトはトマト屋が売ったのだろうこれは短歌か。などとよくわからん自己模倣をしてしまったが、後藤明生をずーっと読んでいて、どうも、その、笑えないんだよ。

 断言するが、後藤明生は面白い。Kindleで読める限りの長編は読んだ。『しんとく問答』部分部分はつまみ食いしてたけど、これ全体として読むと読まないとでは世界の見え方が違うわ、的な。『壁の中』は電子化されてない。普及版と言いつつ桁外れに高い紙の本として出版されたからか。「幻の書」なんだそうだ。大学時代、図書館で手に取ったんだよな。なんで読まなかったんだろう。まああのころ世界の大概がヌルい! とかいきがってたティーンエイジャー今日でおさらばさだったから。二十歳過ぎてたけど。そんなわけで4千円出して「普及版」買っちゃったよ。

 で、それくらい後藤明生のファンになってしまったわけです。なのに笑えない。「笑い地獄」をどう読んでも笑えない。『笑いの方法』とかでも笑えない。

 作者が滑ってるとか、そう言うんじゃねえんです! たぶん原因は僕にあります。僕というか時代というか、「笑い」っていうものの定義が違う、って言うとハイそれまでよのつまらん話なんだけど。

 決して後藤明生が時代に取り残されたわけじゃない。文学の方法として、今なお鋭利だ。正直2020年代の文学(って言うのが凄く乱暴な括りだけど)より、攻めてる。なんか最近文学というか小説、やけに綺麗にまとまってません? 印象だけど。そうでない作品がいっぱいあるも知ってるけど。だけどなんだろね、時代の空気(うわ手垢べたべたなワード)が綺麗ですね。月が綺麗ですね、と同じくらいの位相で。

 それはたぶん時代がなにぶんにもこういう時代だからだろーなー、と深く考えもせずに思う。だって今、明らかにやばい時代でしょ。伝染病が蔓延してようがそれに打ち勝とうが。時代なんて言葉、ほんとに使いたくないんだけど。

 結局言えることは、後藤明生の「笑い」は「方法」だったという点に尽きる。

「笑わせる」ことが目的ではなかった。「笑い」はある伝達のための方法だった。

 方法、ということは、「何かに対応するための基本的な態度」である。もしその方法が幾分か僕と「ずれ」たとしても、「対応」する対象が時と共に変化したから、などと安易に時代性に還元するつもりもなく、ただ単に僕は僕であり、後藤明生は後藤明生である、というシンプルさ以外に言葉を必要としない。

 むしろ、「人は人と共有をできない(何かを……たとえば故郷を、記憶を、言葉を)」という諦念がある(それはあらゆる作品を一読してわかる通りだ)からこそ、笑いを「目的」として共有することもまた、最初から断念されているのではないか。だからこそ、伝達のための「方法」として「人を笑わせる」という態度が選択されていたのではないか。

「笑い」にとって重要なのはそれが「目的」であるか「方法」であるかの違いであるという気がする。どちらが優劣であるとか、そんなことは毫も無い。目的であるにせよ方法であるにせよ、その選択肢の中でそれぞれすぐれた作品があるだけだ。ただ、選ばなきゃいけない、その一点にどれだけ自覚的であるか、否か。

 後藤明生の方法がすぐれた作品であることは先述したように思う。

 まあ、言ってしまえば、今の世の中には後藤明生が足りねえんです! 幕内には明生いるけど。

 これに川柳も小説も関係ない。「利益」をめぐる諸問題さえも実は本質的であるが故に本質ではない。

 たとえば『めぐり逢い』読んでていちばん頸動脈にポントウ接触させられたな(訳:首に刃突きつけられたな)、と感じたのは、結局「お前は目的として笑いがあるのか? 方法として笑いを使っているのか?」と問われたような気がした箇所である。それがどこかはそれぞれが読んでそれぞれが決めましょう。

 こういうのを自由って呼ぶ。自由はこわいしいつも遅れてやって来る。やっぱり、10月2日では遅すぎるのだ。

 

  セル画売り無毛家族へ帰路いそぐ  大祐

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