無伴奏ソナタ

「世界」に片隅と名前が無い


十月十三日
 
 十三日の水曜日。なんかこう、「惜しい」って感じしません? 十三日の木曜日ほどじゃないけど、13金に対しての想ひ。
 まあ子供の頃はジェイソン怖かったけど、今観ると絶対作り手ギャグで撮ってるよね。たぶんもう観ないけど。
 しかしあのアイスホッケーのマスクにチェンソーって良く考えられた衣装だと思う。人を見かけで判断してはいけないが。ジェイソンもフレディもレザーフェイスも見かけで判断してはいけないが。彼らが阿佐ヶ谷を歩いていても温かい目で見守ってあげましょう。阿佐ヶ谷行ったことないからどんな風土なのかわからん。
 とは言うものの、彼らは「見かけで判断されたくて」あんな扮装をしているわけで、名は体をあらわす、の逆で体は名をあらわしている、と仮説を立てることもできるかもしれない。どうでもいいことに気づいたが、ジェイソン、ってジャイアン、に語感似てるよね。なんとなく。恐怖のジェイソンリサイタル。それはそれでいいのか(何が)。
 結局のところ、「名前」は名前以上の(あるいは以下の)何かを過剰に(あるいは過小に)引き連れてくる。僕は川柳書いてるが、句の中に、やたら「名前」が多い。
  反戦歌つづくジャイアンリサイタル
 みたいな。
  ジャイアンを小さく写す宇宙船
 ってのもあった。ジャイアン好きだな。ていうかジャイアン便利! ジャイアン、って体が定義した「名」だから。イメージの塊というか。そもそも漫画における名前と「体」とは、って言語論的に誰か研究する人いませんか。脳科学的に云々、ってやばそうなベースではなく。
 夢野久作が「絶世の美少年の名前が牛熊辰五郎ではサマにならない」みたいなこと(ものすごく大雑把な記憶)を書いていたような気がするが、名前はある世界のレベルにおいてその存在を規定してしまう。(同時にそれは存在が名前を規定してしまうことだ)
 但しあくまでもあるレベル、において。言霊とかそういうの無しね。言霊言霊言ってる人間を僕は信用しない。そもそも「言霊」って言葉に言霊宿ってねえじゃん。祟られるようなこと書いてるけどもう人生祟られてるようなもんなんです! どうってことねえんです! という怯えはやっぱりちょっとある。笑。いや笑でいいのかよ。
 怯えっていうのはとても合理的に出来ていて、触ってはいけないものに触れないようなシステムが僕らの中にはある。でも触りたいよね。触っちゃいけないものって。でも怖い。その折衷が「名前」なんじゃないかと思って。
 ジェイソンがジェイソン、って名付けられること。または13日の金曜日、ってギャグのネタにされるような題名をつけることは、解毒より実は厄介な対処療法なんじゃないか? こういうこと研究してる人はたくさんいるでしょうね。すみません川柳書き風情の生兵法です。
 ただ、川柳やってると、時々、というよりほぼすべて、触っちゃいけないもの/ことに触っちゃうんですよ。日本のタブー、とかそういうことではなしに。そう言うのが嫌いだ、っておっしゃる方の気持ちもわかるし存在もこちらから否定しないから、僕のことは放っておいてくれ。これ余談。
 つーか、触りたくても触れないでも触りたい、ってことでとりあえず名前つけるんですね。既にある名前を引っ張ってくるんだけど、それは自分の中で完全な命名というか。うわ完全なんて言葉使っちゃったよ。言霊言霊。桑原桑原みたいに言うな。まあとにかく、名前というのはやばいです。
 やばいと思ってる人間が一番やばい。「川合」っての画数、どんな姓名判断でも大凶なんすよ。うわー気になるなー。って思ってしまう自分がやばい。フロイトなんて怖くない。と言えればいいんだけど。
 今日の結論として、13日の金曜日、というと何かすかっとさわやか。それだけだ! 以上!
 
  ヨーヨーに名前を付ける無人島  大祐   

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