故郷から10000光年


永劫に回帰すること 回帰を永劫にすること

 

十一月四日


 産まれた町は悪臭の充満する町だった。

 パルプ工場が真ん中に聳えていて、煙突から煙と、これは煙突からかどうかはわからなかったが、なんとも言えない異様な匂いが発せられていた。赤ん坊の頃からこの匂いを嗅いでいたはずなのに、「なんとも言えない」としか表現できない、人間の想定を超えた臭さなのだった。

 とにかく「悪い」としか思えない臭いが町中を覆っていた。

 丘の上にあった自宅から眺めると、町の中心に黒くごつい工場が屹立し、真夜中でもオレンジの灯りが鮮やかに照らしていた。きれいだ、と思っていた。

 小学校の近くにあったパルプ工場より、さらに近いところに製菓会社の工場があった。こちらからは甘い、いかにも甘々とした匂いが漂ってくるのだが、それとパルプの臭いが混ざるとどうなるか。お互いを引き立てあって凄絶なことになるのである。腐食剤とビスケットは同時に食うものではない。

 そんな時、小学生は「あまくっせー」と言って妙にテンションを上げていた。この町に適合してしまったのである。「あまくっせー」と言いながら、たまらないほど嫌な臭いと感じながら、それでも臭いが原因でこの町を出て行こうとは思わなかった。

 人の心は、荒んでいた。

「悪意」というものがもはや物質として流通しそうな町だった。どれだけ自分が苛酷な目に遭わされたか、逆に人を苛酷な目に合わせたか、考えると呆然とする。

 何より、そのことに気づいていなかった。

 これが当たり前だと思っていた。

 やや離れた市の高校に入ったとき、「おめーんとこな、高速通るだけで臭いわ」と何度も悪罵された。なんのことはない、その市の人心も荒んでいたのだが、そいつらに指摘されるまで、自分たちの町がそこまで荒んだ町だと思っても見なかったのだった。

 別に町の名前は書いてもいいが書かない。蓮實重彦が疎開していたり、町出身者二人が戦艦大和と武蔵の艦長になっていたり、すげえな大戦末期、状態だったのでググればわかると思う。ちなみに「日本中心にある町」という触れ込みで、数年前、一瞬風速が上がった。

 今はその町に住んでいない。

 よく理由もわからないままにその町を離れて、どこに定住できるわけでもなく、伊那市の団地に流れ着いている。

 その町の知り合いともすっかり縁が絶えた。親戚や同級生がいるはずだが、何の言葉も交わしていない。

 なつかしく思い出す。自分を苛めた奴等のことを。自分が苛めてしまった人のことを。一生忘れないだろう。なつかしさとは、つねに憎しみで満たされている。僕はたぶんなつかしさの中で死んでゆくのだろう。

 今、あの町にパルプ工場はない。工場跡地はすっかりならされて、清潔な別の工場が建った。きれいな町。たまに墓参りに行って、空気を吸う。ニュートラルな山国の香りの空気。

 しかし何が変わったとも、僕はもはや思えないのだった。

 

  抜け忍のアルトサックス奏法書  大祐

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