子供の消えた惑星

 

時間の不在


十一月十日


 休み。

 すっかり落ち葉が黄色い。

 スタッドレスタイヤ買いにゆく。

 長野県のアイスバーン半端でないのである。氷雪の道路、スタッドレスがなければまず走れない。というかスタッドレスは「あるだけまし」なお守りみたいなもんである。どれだけの自動車が冬のたびに遭難しているか。

 昔、親戚のおじさんが駆け込んできたことがあった。車が坂道で難渋している、つまり滑って全く動かない、というわけで父と僕が救援に行った。肩を並べて車両の後部を押した、はずなのだがよく覚えていない。エンジンの空ぶかしする音と排気ガスは記憶にあるような気もする。携帯電話など夢物語のアイテムだった時代の話。

 団地を出るとき、千春さんから「花買ってきて。白い花」

 と頼まれる。

 ワイパーに、黄色い一葉が挟まっていた。この葉が落ちたら……って、おお、ヘンリーだ。つまらん駄洒落。

 イエローハットは近く。新たに買った車なのでスタッドレスも新調しなければいけないのだった。論理学。交換してもらっている間、隣にある、怖くて入れなかった市一番お洒落なファションショップ(ふぁっしょんしょっぷ、とひらがなで書きたいところだが自重)に入り、値札を見て桁数に逃げ去る。税込770円のブックオフプラスがいいです。なんとなく。

 父から電話。「工事車両がたくさん停まってるから、気をつけろ」。お前は信用できないからな、とギョロ目で言われた感じ。

 実家に行かなきゃならないのはノーマルタイヤを置くため。狭い団地に置き場所なんてないのである。これ、なんか情けないだろうか。父の顔は行くたびに少しずつ変わっている気がする。また昔の話、僕の「髪が後退したような気がする」という悩みに、ギョロっ、と目を剥いて、

「お前は俺の子だ! だからハゲねえ!」

 と何の根拠もない断言をしてくれた。実際と言うべきかどうか、癌治療で女性ホルモン打ってるとき、髪の毛70代後半にしてふっさふさだった。あんたはプリキュアかっ、と言いたくなる毛量だったがそれも昔の話になってしまった。

 実家に、そんなに工事車両は停まっていなかった。上がり込んで牛乳飲んでいたら、「おい、なんとか言えやし」

 とカーディガンの父が出てきた。母と妹は家族集会に出てるとのこと。僕以外は全員プロテスタントなのです。洗礼を迫られたが結婚して家出たのでギリギリセーフ。いやそのために結婚したわけじゃないっすよ。誰に言ってる。

「おい、車見せろや」

 父にはハスラーを見せたことがなかった。コンソールを覗いて父は言った。

「これはナビか」

「いや、正確にはこれ自体がナビなんじゃなくて、スマホつないでアプリにナビしてもらう」

「いいじゃねえか」

「いいねえ」

「未来だなっ!」

「未来」

 タイヤを物置に仕舞う。タイヤは軽い。そして物置の鍵が閉まらない。詳しい描写はできないがとにかく微妙に複雑な鍵なのだ。

 家に上がる。

 スクリーンに肖像写真が大写しにされて、映写機とVAIOを父が睨んでいる。

「お葬式でな」

 と父はマウスを動かしている。

「流す映像を頼まれた」

「パワーポイント使ってる?」

「使った方がいいんだろうな」

「え、ファイルから直に写してる、とか」

「カーソルが見えねえ」

「これ、当たり前だけどWindowsだよね。Macしかもう僕はわからない」

「カーソルが見えねえ」

「ちょっと貸してくれる?」

「おお、ここだ。ここで〈スクリーンを選択〉を押せや」

「できたねえ」

「パワーポイント使うぞ、やっぱりな」

「という忙しいところあれなんだけど、鍵が閉まらない」

「お前は信用ならねえなあ」

 とは言われなかった。「鍵はなあ、こうして閉めればいいんだ」

 と物置に向かう父のつむじが、あの、まあ、その、なんだ、寂しくなっている。あの自信はどうした! と自らの危機感も並列しつつ叫びたくなるが、まあもうすぐ八十二才だ。無理もない。そして僕は来年4回目の干支だ。うわわわわ。これでいいのだろうか。

 帰り際、駐車場から出る僕に、父が何かを回すジェスチャーをして叫んでいる。「その曲がり方はなんだ」と言いたいのだろう。コルトレーンかけて聞こえないふりをした。

 なんかごめんよ、こんな息子で。

 黄色の一葉はまだワイパーに挟まっていた。

 ふと、「へい、しり」と呼びかけたらどうなるだろう、と思ってしまった。ぴよん、と反応したので、つい「千春さんに電話かけて」と言いつけていた。

「かわい、ちはる、さんに電話をかけます」

「もしもし」

「もしもし。大祐です」

 とこの時点で、別に話すことはないことに気づいた。

「えーと、あの、花、白い花でよかったっけ」

「赤でもいい」

「カーネーションかなあ」

「かなあ。花屋でまた電話して」

「これ車でかけてんだよ。信じられる?」

 僕は俄には信じがたかった。未来の車じゃん。ブレードランナーじゃん。とそこで、「2021年の時点」でデッカードは自分より若かったのではないか、と思い至って愕然とする。

 市役所前を過ぎたあたり、やけに広いバイパスで、黄色い木の葉は剥がれて、どこかに飛んで行ってしまった。

 

  樹が在った鱒をおそれている年も  大祐 

  

 

コメント