寝ずの番

 

想像力の消尽を想像せよ


十一月十一日

 瀬戸内寂聴氏が亡くなったらしい。

 この作家に対してあまり思い入れがない。むしろ嫌い、と言える範疇の作家だった。

 でもやっぱり凄い人だった。などとアリバイを作るのも寒気がする行為だ。だから敢えて書く。かなり嫌いだった。

 永山則夫を弁護したのも偽善なら、永山が態度を豹変させたと言って詰るのも、「死刑囚の心理状態」に何の想像力も及ばないのだろうか、と作家としての氏に見切りをつけさせてくれた。あくまで「作家」としての力量の問題である。

(付言すれば僕は「永山則夫」に対して尊敬も唾棄もしていない。永山を擁護するパフォーマンスを演じた三人の「一流文化人」に対しては、それぞれに深く尊敬を抱くゆえに、唾棄した)

 ただ、言っておく。

 人は必ず死ぬ。それは「存在」が「存在」を超えてしまった人間の死に際して最もよく顕れる。

 例えばジャイアント馬場がそうであった。中島らもがそうであった。昭和天皇は無論のことである。

 明日の新聞とかでは「ありがとう 寂聴さん」とか言う見出しが踊るのだろうか。それは死を確認することではない。死によって刻印された外傷を隠蔽するための、悲しい営為だ。悲しい、とはこの営為そのものを指す用語に他ならない。

 だからこそ死は死なのだろう。そしてその「存在」の大きさと喪失の大きさは、川柳として作りやすい。それはその本人が生前からで、「存在」が常に死を孕んでいたことの証左だとも言える。

 これは川柳書きの妄言に過ぎない。自分は人を傷つけるだけの存在だ。だから悼まない。そしてそれは当然同時に悼むという営為でもある。

 今日はもう、沈黙したほうが良さそうだ……。

 

  寂聴の毛を剃る仕事歩合制  大祐

  プラウダに載る寂聴の誕生日  同

  

 以上、過去(2021年以前)作より。 

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