タイムスケープ

反映、が「無い」ことの証左でしか無く

 

十一月十二日

 ありふれた話。

 中学生の子にstaff の意味を問われたので、「ほら、かのえ……」

 と言いかけて気がついた。

「君は子供だったろうから知らないかもしれんが、狩野英孝という人がいて」

「知らないです」

「スタッフ〜というのが持ちギャグだったんだけど」

「昔の人、はあんまり、知らないですね」

「む、昔か……」

 ラーメンつけ麺僕イケメンの「くそ煮込みうどん」なんて単なる「若いチンピラ」でしかなかったのに。頑張れエイコー。どうした50TA。

 などという話題が、人間は好きだ。

 このジェネレーションギャップ(という単語はどの世代にも通じる)を利用したコンテンツなど、腐るほど在る。

 考えたいのは、なぜ人間はここまでこの手のネタが好きか、ということだ。

 これは論理的に考えていても仕方ない。その時受けた感覚に正直になろう。

「狩野英孝が昔の人」と断ぜられたとき、僕は愕然とし、その愕然が心地よかったのだ。

「時」というものがいかに主観によって伸縮するか、その可塑性をまざまざ見せつけられた快感だろうか。

 狩野英孝が流行った(という錯覚を起こさせた)のは、たかだか十数年前に過ぎない。だが十数年とは、中学生にとっては「一生」の百パーセント以上なのだ。これは確かに昔だ。そしてそれは僕ら老人にとって、些細な日常の埃の蓄積でしかない。

 そういえば僕も高校の頃、「今観てる『パトレイバー』って、『ガンダム』から10年経ってないんだよな」と気づき、現在とは逆の立場で愕然とした。

 そして「時間」というものの本質に、時とは決して等間隔で進行するものではなく個人の歪みによっていくらでも歪むという事実に、ちょっぴりと近づけたような気がして、悦楽に震えた。それは畏れでもあったかもしれない。

 十数年以上前と言えば、時を駆ける「仮面ライダー電王」とかがあったりした。今の中学生に「佐藤健って昔ライダーだったんだよ」と言ったら信じてもらえないのだろうか。それとも佐藤健も昔の人なのだろうか。

 ちなみに、中学生、「ハンバーグ、の人なら知ってますけど」とフォローしてくれたが、僕はそのハンバーグ云々のギャグを知らない。それもありふれた悦楽で、ありふれた話である。

 

  一本のマサ斎藤が佇つ波止場  大祐

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