光の王

 

神が死ぬまでもなく

十一月二十一日

 この歳になって『大菩薩峠』読んでいる。中学生の時挑戦して頭が混乱して「龍神の巻」あたりで挫折した、という「よくある話」はしない。こうやってしてるけど。

 筒井康隆が『乱調文学大辞典』で「途中からドタバタ道中ものになる」と書いていたが、何のことはない、最初の「甲源一刀流の巻」っからドタバタ(懐かしい言葉だ)道中ものだ。

 完全に「これ、笑かしにきてる?」と思わされる喜劇。

 何がそんなに笑えるかというと、因縁話の連鎖、人間の因果が因果を必ず招来する、すなわち、ある事象がある事象を完全に喚起する、というその「整然」ぶりが、真面目な顔で展開されるコメディにしか読めないのだ。

「カルマを筆写する」という目論見は、カルマというものを、「完全に把握できるもの」として認識している上での方法論だ。もちろん、人間世界の窮屈さは(あるいは途方もなさは)、もっと整然としていないものである。

 あるいは、もの、とさえ呼べない何か。

 その「何か」を表すひとつの方法として、大長編小説がある。

 またひとつの方法として、短詩がある。

 別に川柳万歳、とかそんな脳天気を言いたいわけではない。ただ、短詩の短さ、というその一点において、「もの」と「こと」とが限りなく接近するあの「カルマ」という奴を嫌が上でも表現してしまうのかもしれない。それは良くも悪くも、である。詳細はいずれ書く。

 ただ、『大菩薩峠』は途方もなく面白い。冗談抜きで(あるいは冗談込みで)。

 まだ五巻までしか読んでないし、はなくそ川柳作家の分際、偉そうなことを言える立場では全くないのだが、「これ、絶対完結しねえな」というオーラをビシビシ感じる。そこもまた面白い。

 なんか今日、自分の心理が途方もなく暗いので、机竜之助にガンガン感情移入するのですよ。なんだこの悪文。

 『大菩薩峠』読みつつ『曳き船』観て、今『ジョーカー』観てる最中。それ、心理暗くなるだろ、というところで川柳も作りました。その出来は言わない。とりあえず風呂入る。

 

  鬱病の薬缶を持っていないひと  大祐

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