両輪以上の円周率 |
十一月三日
文化の日。
十五年前、千春さんと交際をはじめた日。
はじめた、というかさー。これどこかで書いたような気がするが改めて書く。
二人はまだ友人同士として横断歩道を渡ろうとしていた。
千春さんは自転車を押していた。僕は徒歩だった。ふいに、
「川合さん」
と話しかけられた。
「やっぱり私、川合さんのことが好きみたいです」
うわー、来た。どうしようと正直思った。すでに一度告白されていて、その時はやんわりとお断りしていたのである。別に千春さんが嫌いとかそういうのではなく(色々怖いので特筆しておく)、人が嫌いだったのである。
自分が恋人になる、ということがおそろしくてたまらなかった。三〇歳過ぎていたのに何をやっていたのか。
そんなわけで十五年前のあの瞬間、僕は「うまく切り抜ける方法」を探していた。相手を傷つけないように、自分も傷つかないように。卑怯の極みである。
「あー、その」
と僕はゼブラゾーンの方を見て言った。
「僕も、千春ちゃんのこと、大切だと思っているよ」
「じゃあ、成立ってことですね」
「あ……はい、うん……」
かくしてカップル誕生。あー人生ってなんだろー、って思ってた自分は今見てもゲスい。
で、その日は市の文化祭に展示した川柳の色紙を、片付けに行くところだったのである。だから文化の日のわけで、この日はなかなか忘れ難い日になった。
今日、二〇二一年の十一月三日、記念に何か食べにゆこう、とモスバーガーに行った。モスバーガーは高い。それでも、この長い(主観的には)時間の中で、何度も二人で寄った。診察日が同じだった時は、僕が彼女を車に乗せて行って、帰りにそれぞれの小遣いで照り焼きバーガー食べたりしていた。オニポテ分け合えるようになったのはいつからか、覚えていない。つくづく非道い男である、自分。
一週間くらい前から計画していたのだったが、今日の昼前になって僕は急な悪寒と頭痛に襲われた。熱はない。千春さんに家事の全てを頼んで眠った。ひたすらに眠った。いやにはっきりした夢を見た。夢の中で、キアヌ・リーヴスが妻を三階から投げ落として、自分もその上に落下していった。
二人は抱き合ったまま、動かなくなって、映画はずっと動かなかった。
千春さんの「どう?」という声で目が覚めた。
「あー、全くよくなった。どこも平気」
「今度はね」
と千春さんは少し悲しげに言った。
「私が頭、痛いの」
「休みな。寝るのが一番だよ。モスバーガーはネット予約もできるし、僕がひとりで買ってくるよ」
と言って僕はまた眠った。起きると三時を過ぎていた。休日に何もしなかったな、と思った。記念日だったな、と思わないこともなかった。
千春さんは着物の着付けをしていた。
「眠ったら、気分よくなった、やっぱり私、モス行く」
外はもう夕暮れて、それでも一般の夕食時間にはまだ早く、店員以外にはモスバーガーに人影がなかった。どこにでもある注意書きを読み、二人とも発熱はしていないよな、と思う。
バーガーセットが運ばれてきて、マスクをしたままの彼女の顔を僕は見つめていた。不思議な顔をしている、と思った。どんな風に不思議かはうまく言えない。ただ彼女を見ていると不思議な気持ちになる。この不思議を一生かけて解こうとするのだろう。たぶん解けない。間違って解いてしまう時もあるだろう。苛々する時もある。鬱陶しくなる時もある。はっきり言って、憎んでしまう時もある。
それでも、
「好きだよ」
と、黒眼を見つめながら言った。
「たまに言うんだね」
と彼女はマスクを外し、フォカッチャにかぶりついた。帰りの車の中で、「大祐くんが、『好き』って言ってくれたー」と震えながら言った。
「嬉しいの?」
「ここ数年言われたことない」
「そうかな。泣いてるの?」
「ちょっと、ね」
十五年は僕にとって長かった。自分の何が変わったのかわからない。何も変わっていないのかもしれない。
家に帰ると千春さんは「頭が痛い」というので氷枕を取り出してくると、「ポカリスエット作って」「ゴミまとめて」「体温計探して」「選句して」とほぼ同時に要求されたので、さすがに「ちょ、ちょっと待ってくれ! ちょっと待って、プレイバック! プレイバック!」と昭和なキレ方をしましたが全部やり遂げました。自分はよくやったと思います。まる。
愛は欠損である。満たそうとすればするほど陥穽は深くなる。という言葉は僕が勝手に作ったどうかもわからない。これが愛なのかもわからない。とりあえず川柳を28句作ったので寝る。
ふたしかな渡海をするとミトン欠け 大祐
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