神々自身


これ以上無知になることの困難さ

 

十一月五日

 悪は存在するのだろうか。

 そもそも「存在」という「こと」あるいはそれ以外の何かのあり方を、僕は曖昧にしたままだ。

 同時に、「悪」という「もの」/「こと」を僕は定義づけられないでいる。ただ、悪を否定したいという希いと、自らが悪なのではないかという疑義(もしくは確信)の狭間で、結論だけ先回りするなら、苦しい。

 自分にとって否定したいもの/ことだから、僕はそれを悪ととりあえず言いさしておくのだろうか。だとすればそこには同語反復しかあり得ないことになる。

「あり」? 「ある」と言うのだろうか、この場に及んで。

 少し視点を変えよう。神の存在証明をめぐるよくあるパラドクス。

「神が一切を創造したというのなら、何故悪を創造したと言うのか」

 と、神の否定、または肯定に論を進めてゆくわけだが(かなりざっくりした把握だが)、これは「悪」を起点にして「神」の存在を確認しようとしている。(……そこから、人は命懸けの飛躍を可能とするのか)。

 だが逆に、「神」を起点にして「悪」の存在を論じることはできないか。

 神が存在することは、悪の存在証明に、もしくは不在証明にならないか。己が悪である、と断言してしまう寸前に。

 などということ書いてんの、よく見かけるじゃないですか、あのフリー素材のイラスト、なんか独特の笑顔でありとあらゆるシチュエーションに対応するあれ。よく見かけるどころかパワーポイントには必須のごとくあれ挿入されてきますよね。「あれ」の名前も知らないけど、自分、あのイラストが大っっっ嫌いなんすよ! あの絵柄見ると吐き気するんですわ、本当に。ずばり、あれは「悪」だと思っています! そう感じてんの自分だけじゃないはずなんだけどなー。賛同される方は、まあ、別に何もしなくていいです。ただ、この世界の片隅で耐えて行きましょう。

 と、いうことを声を大にして訴えたかっただけです! それだけだ!

「あれ」好きな人はすいません。でも「あれ」積極的に好きという人はいないと思うんだよな、ということを考えたふりしてから風呂入って川柳書いて寝ます。

 

  マヨネーズ神を証明したあとも  大祐

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