例えば、内部など本当にあったのだろうか? |
十一月六日
風車のある公園に行ってきた。
日本人は風車が好きだ。猪木の「風車の理論」然り。ドン・キホーテの受容然り。
(どうでもいいがディスカウントショップの影響でドンキ・ホーテと発音してしまう人挙手をどうぞ。僕は挙げる)。
ドンキ、いやドン・キホーテは風車の場面がやたらフィーチャーされるのだが、言うまでもなくあの場面の喜劇性=悲劇性あるいはノンセンスは、「風車が強大で打ち勝つことができない」からではなく、「風車」というもの/ことが「ドン・キホーテ」というもの/ことから位相が違う、ただその一点にある。
勝てないのではない。「勝負」というものが成立しない異なる場にふたつは在る。
これはすなわち、川柳・俳句・短歌などの短詩型的発想ではないか。
日本人が「童話としてのドン・キホーテ」を受容するときに風車の場を選んでしまうのはこの大和魂があるから、などと詭弁を弄するつもりはない。
ただ、おもしろい、という感性をベースに持つ一群があり(日本人、などという厄介なくくりは不可能だ)、そのクラウドが「擬騎士と巨大な風車」というアイコンになった可能性は考えてもいい。
この列島に住む限り、風車というものは常に位相から外れたもの/ことだ。
事実として、写真の「風車」、羽根が網目になっている上に、電力で自ら回転するのだった。
今・ここに騎士がいたとして、立ち向かうべきは、そうした「風車」のシステムそのものなのかもしれない。
コードレス社会の村田兆治伝 大祐
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