現世へスメルジャコフが貼る網戸 |
十一月九日
ブンゲイファイトクラブ3(以下BFC3)一回戦の結果、敗退。あえて自分で言うけど、予想以上の僅差、だったかもしれない。BFC1の時もそんな感じだったような……。
二年前に負けた時は勢いで一晩七〇句作ってしまった。今回はそれができない。今日、体調を崩していたのもあるが、なんの川柳も作ることができなかった。
そんなわけで、BFC3に出した「フー 川柳一一一句」の自己ジャッジを。そうすれば、何がBFC1の時と違ったのか、という答えにもなるかもしれない。
(なお、こちらのリンクを参照していただくとわかりやすくなります→BFC3 1回戦 グループB)
まず、「フー」について言えば、面白い。
これは自分が作者である以上他人になることは不可能だが、それでも可能な限り読者として読んで、面白いのだ。
作者としても、「今日川柳が書けなかった」というのは「やり尽くした」からとも言える。もう搾りかすも残っていない状態まで搾り尽くした感覚はある。
正直言って、2回戦に進めたとして、あれ以上のものができたとは思わない。
それでも、自己採点をするならば、倨傲でも謙譲でもなく、5点満点中4点をつける。これは自分に満点をつけたら終わり。などと言う偽善的な道徳ではない。
やっぱりまだ「満点ではない」構造的な問題があるのだ。
ジャッジのジャッジはまだ書いていないのでなるべく差し控えたい。同時に他の方の感想も今はまだ僕が言うべき時点ではないにせよ、「文字の配列が美しい」という意味の評をある方からいただいた。
確かにその通りで、ご覧になっていただければ(リンク参照)一目の通り、句の並びがアーチを描くようになっている。これは意識して並べた。凸凹にならないように。従ってこの配列に「意味」というものはほぼ注意を張れなかった。
だがそれでよかったのだろうか。
勿論、僕の句は無意味だ。などと断言したくもなるが、本当のところは無・無意味を目指したはずではなかったか。無意味さえ無いところ。
元来自分の作句の時に意識するものは、「言葉のベクトル」だった。あらゆる言葉はベクトル、すなわち強度と方向を有しており、そのベクトルを「壊滅」と見られてしまうまでに制御しきることが基本的態度としてあったはずだ。
その方法論が間違っているかは問わない。これは僕のための僕のジャッジだ。
「フー」において、僕は意味を放棄した。ために、「意味」が「意図せずに」発生してしまったのではないか。少なくとも読者の僕の目にはそう映る。
無・無意味とは行かないにせよ、無意味を超えようとする姿勢が、大きく崩れてしまっていたのではないか。
そうした疑問をぶつけたくなるから、自己採点は4点以外にありえない。面白くはあったから、のこの点数なのだが。
しかしここまで書いて、BFC1の時と何が違うかわかった気がする。1の時は、あれは入院中に書いた句群がメインを占めていた。ある一つの状態。そしてその状態から抜け出そうとする欲動。たぶんそこで、「意味を抜け出そうとする」制御が効いたからこその散華だったのではないか。
だから二年前、負けた時に制御が外れ、異常な速度で句作してしまったのではないか。
前々回と今回、どちらが良かったとも言い切れない。当然、悪かったとも言い切れない。強いて言えば今回の方が技術的には進歩しているし、前々回の方が独特の透明感を持っていた気もする。
ただ、もう良いのだ。
自分はとてもすごいものを作った、と自分自身には言っておく。これはどんな創作者も思うべきことで、殊更強調することでもない。
「フー」はおもしろかった。
だが「おもしろかった」という過去にすでになりつつある。僕はまた僕のやるべきことをやってゆく。そして僕はやるべきことをやったのだった。
その意味での採点4である。これは揺るがないし、かといって反論を否定するものでもない。
今は祝う。すべての人を。祝祭はまだ終わっていない。僕は僕なりの形でファイターとしての終わりをつけた。今日はこのブログに川柳をつけない。それは敢えて、であるが敢えて言挙げすることでもない。ただ祝う。すべての人を。勝ち負けを超え、参加不参加を超え、意味を無意味を超え。ただ言葉にする。
おめでとうございます。
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