捨てられたものが 何を捨てられたのか問う |
十二月六日
クリスマスが近いと梶原一騎の話したくなりません? 誰に訊いてる。いや梶原先生とマス大山がサンタの衣装で孤児院慰問してた、っていう逸話の(想像上の)ビジュアルが凄過ぎて。
というわけで『あしたのジョー』、これはもう散々に語り尽くされて語ることなんかもう残っていない、はず。それにしても最近本屋で『ジョー』本体はおろか関連書籍を見ませんのう。まあ本屋に本なんか売ってないんだが、この時代。
したがって資料は原作のみで言っているから、たぶんもう誰かが言及したこと、というか基本知識なのかもしれない。なので今日、自分のためだけの覚書にしときます。
最後ジョーは「真っ白に燃えつきて」「白い灰」になる。これを「死」と捉えるかどうかはあと100年くらい論争が続いてもいい気がするが、ともかく言明されているのは「あしたの否定」である。
「ほんの しゅんかんにせよ まぶしいほど まっかに 燃えあがるんだ」
という「しゅんかん」への傾注が、「あした」という未来を捨て去ったものであることは言うまでもない。そもそもジョーは「あした」をどれだけ志向していたか? 「あしたのために」って言ってんのは段平のおっちゃんだけで、ジョーはただ「今日」もっと言えば「今」の瞬間で物語ぜんぶ貫いてる感じがします。それは苦しみ、では言表できない何かの喪失に裏打ちさせられているのだけれど。
「あしたは どっちだ」は寺山修司の作詞によるいかにも寺山一流のプロデュースと言うべきで(作中の登場人物は誰一人このセリフを口にしていない)、本質は抉っているが、未読者に『あしたのジョー』というテクストを誤読させるには十二分な磁力を放っていたと捉えるべきだろう。
ジョーはあしたを探していない。
そしてジョーが完璧にあしたを捨てる、ノーフューチャーに達した時、『あしたのジョー』は「あしたのジョー」であることをまた否定することになったのだ。それが「まっしろ」になったということであり、「死」であるか否かと言う点において、作品から読み取れるのはそれ以外のものではあり得ない。
あとは、僕たちが『あしたのジョー』を「いつ」の「こと」として噛み締めるかに掛かっている。昨日? 今日? 明日?
三島由紀夫が『ジョー』ファンだったのは有名だが、三島には「昨日と明日」しかなかった者の「今日」の喪失感があった気がする。というのは余談。僕はあしたに備えて早く寝る。
冬コミの伊丹十三無言なり 大祐
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