パーマー・エルドリッチの三つの聖痕

 



一月十七日

 いろんなことから目を背けつづけてきた。

「いろんなこと」は誰でも抱えている傷の数々で、ここでその逐一を述べるほど僕は恥知らずではない。

 なぜ恥知らず、などと言ったのか。

 自分の傷の痕がひたすら痛む。などと言った瞬間に、僕は許されてしまう、あるいは許しを乞うてしまう。それは自分だけでなく、他人に傷を負わせながらこの歳まで生き延びてしまった恥ずかしさだ。お前、自分ばっかが痛いと思うなよ。という誰かの目線。

 目線を感じるということが恥の最もよく顕われる局面だが、その点で目線・視線を妄想=構築してきたのがSFにおける、日本ではたとえば筒井康隆に、アメリカではP.K.ディックに代表される一群(この群、というべき作家たちはあまた居る。ただ彼女ら彼らにはただ運の悪さにより過剰さが欠如していただけである)ではなかったか。

 SFに対する最大の侮辱として「当たった当たらない」評がある。この作家の予言が現実のものとなりましたね、『一九八四年』はある意味象徴的でしたね、とかいう「空想科学小説」を託宣に擬してるあれ。

 この屈辱的なジャンルへの蔑視へ、あえて逆らう意味を込めて「一番当たった作家」を挙げるとするならば、それはアシモフでもクラークでもなく(衛星通信の発明者、という神話を盲信したとしてもだ)、実はギブスンですらなく、ディックと筒井康隆が双璧だったのではないか。あとはバラードとレムが入るが、とりあえずディックと筒井について書く。

 二人に共通するのは「まなざし」という「こと」に対する本質的な切迫である。一作でもその視点(!)から彼らの作品を読み返してほしい。いかに他人に見られるか、あるいは他人を見てしまっているか、という痛みに満ちている。文学だとかそんな些細なことはどうでもいい。痛みをどれだけ感じているか、そしてその痛みを「恥」として自覚しているか。恥を知れ、という呪縛にとらわれた作品がたとえば『ユービック』であり、『おれの血は他人の血』であったと言っておく。

 文学なんかどうでもいい。僕のやっていることも所詮文学ではない。だが「恥」と「痛み」のない文章の羅列など、敢えて悪い意味で科学ライターのパンフレットでしかない。『幼年期の終わり』でさえそうなのだ。クラークをさっきから目の敵にしているようだが、結局あのあたりの人たちは「優秀な科学ライター」であったのだ。それは悪い意味だけではなく。

 ただ、間違いなくその賞味期限は切れる。何のためにこの作品はあるのか? ということは時代(このあとあるとすればだが)が答えを出してくれるだろう。

 翻って、自分はどうなのだろう。この終末感に満ちた世界で、なんのためにお前は作品を書く? それも川柳というニッチを? 誰のために? 自分のために、なんて幼い逃げ口上を打つなよ、自分。という日記を書いて、今日、川柳が書けなかった。

 千春さんと喧嘩、終わる。Twitterブロックしていたので、しばらく相互フォロー外れていた。彼女いま、頭痛痛いと寝ている。僕にはポカリスエット入れるくらいしかできない。それがお前の役割なのか? 恥を知れ。という言葉はひたすらに痛い。人から自分はどのように見られているのだろう? 結論を先延ばしにして、三島由紀夫読み返す。三島もそういう「当たった」作家には違いないのだった。

 

  海外のガリガリ君の折れやすき  大祐

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