星々の海をこえて

 

そこにとどく


六月二十二日

 『宇宙船とカヌー』(ケネス・ブラウワー 著、芹沢高志 訳、ヤマケイ文庫)"THE STARSHIP AND THE CANOE",by Kenneth Brower 読む。

 物理学者フリーマン・ダイソンとその息子ジョージ・ダイソンのノンフィクション。

 おとうさんのほうはまあ有名人だし、なんとなく「何をした人か」ってイメージ湧くと思う。ガキの頃の宇宙学入門書(と、いうかUFOブームにあてこんだ擬似科学パンフレット)ではアイドルだったもん、マジで。

 で、息子のジョージくん、これ「何をした人か」って説明するのが難しい。

 一言でいうと「カヌーを作ったひと」なんである。いやカヌーを発明したとかでは無くね。

 息子ジョージ、自然の中で暮らすのが好きで、海が好きで、独学で先住民の知識やら海洋学やらマスターして、自作のカヌーで北極圏からカナダあたりまでうろうろしてました。うろうろのスケールでかすぎだろ。まあこの本によるとそんな感じの若者だ。どんな感じ? とは書いててあらためて思うが。

 で、このカヌーってのがなかなか半端なくて、何回も作り直してんだけど、最終的には全長37フィート、両脇にサブボート連結してる三連結船へ怪物的進化を遂げる。コクピットは6つあって、どうもジョージくん、ここで家庭を営みたかったらしい。海の中、カヌーの上で育つ子供。(ただし、本書の段階では彼女なし。アーティストとはそういうものだ)

 と、いうわけで分類はしがたいんだけど、70年代の若者、ただしもっぱら海の上でパドル漕いでるんだが、当然ジョイントって葉っぱ回したりもする「あの時代」の20代だったわけだ。ある意味わかりやすいっちゃあわかりやすい。鯨の歌とか聴いたりするしね。そういうエイジ。

 それに対して、どっちかというとお父さんの方があぶない。いや世界的宇宙物理学の権威なんだけどね。だからこそ過剰にあぶないというか。

「水爆を爆発させて推進力にして、よその恒星まで行ける宇宙船作ろう! まあ手はじめに木星の衛星とかでもいいや! あ、船体はすごくでっかくてひとつの街がまんまあるくらいのね」

 とか、「スペースコロニーつくろう! 現実的で経済的なやつ。マジで!」とか「彗星に木植えて、人住めるようにしよう! ナイスだろ! わはははは」

 とか、本書ではあんまり取り上げられないけど「木星壊して、太陽系すっぽり覆うボール作ろう! 人間はそのボールの内側で暮らすのクールじゃね? あ、太陽のエネルギーたっぷり取れるからすげーエコだよーん」

 とか言ったり実際に作りはじめてる人なんである。なお、セリフは僕が勝手に誇張したが、素で過剰すぎる。「人類は地球ではもう限界だ! 宇宙に行くしかない!」って普通に話す姿はまさに自由人。ジオン・ズム・ダイクンの元ネタになった(たぶん)人間は何かが違う。

 んで、この父子ふたり、まあ別に仲悪い訳じゃないけど距離がある。あたりまえだ。ただ、距離、ってものが物凄く父子にとってオブセッションになってんじゃないかと僕は読みながら思った。

 息子は海に。父親は宇宙に。

 距離。自分と対象が離れていること。手をのばしてもとどかないかもしれないが、のばすこと自体に悦楽をおぼえるもの。

 これは、「対象」ってものを認識した人間にとって、かならず経験される悦楽ではないかとも思う。

 だから例によって句の話だが、「写生句」というものの鍵はそこら辺にあるのではないか。これは俳句になってしまうが、

  鶏頭の十四五本もありぬべし  子規

 もつまりは「距離」の句ではなかったか。宇宙船でも、カヌーでも近づけない、だからこそ同化できてしまう疎隔。千葉雅也さんが『リバー・ワールド』の帯に「ここで歌われているのは距離だ」と書いてくれたとおり、たぶん短詩型、そして川柳のメカニズムにはあらかじめ距離が組み込まれてるはずだ。

 で、このおとうさんフリーマンと息子ジョージのダイソンズ、まあ本の構成上なのかクライマックスで再会してほどほどに打ち解けるんだが、あくまでほどほどで離れてゆく。特にドラマとして盛り上がらないが、「距離」を抱えた人間はそれぞれ忙しいのだ。

 ともあれ『宇宙船とカヌー』面白いのでおすすめです、とは言っておく。長野県の僕に海はあまりに遠すぎる場所だけれど。

 

今日の蛇足

 ヤマケイ文庫って「山と渓谷社」の文庫なんだけど、ラインナップ見てるとくらくら来ます。『山でクマに会う方法』『わが愛する山々』『空飛ぶ山岳救助隊』etc.そのなかにジョン・クラカワー『空へ』があった。いいのかあれは!? と思ったがまあ山はそこにあるので良いでしょう。   

 

  藻のなかの芹沢鴨を手でつかむ  大祐

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