生は死。そして死は生に非ず—— |
六月十五日 みなさんに幸ありますよう。 本棚にある「セレクション柳人 石田柊馬集」はご本人のサイン入り。 このサインをもらった時というのは、私がまだ若造の「何者でも無い」川柳愛好家に過ぎなかったころですが、忘れもしない、今はなき「川柳カード」大会の二次会でした。「すごい人たちが選者としてあつまる」ことを事前に知っていたので、「セレクション柳人」詰め込むだけ詰め込んで行ったのですよ。サイン欲しくて。田舎者ですから。 いちばん欲しかったのは石田柊馬さんので、いい感じに会場(広い部屋の立食パーティーだった)が冷め始めた頃、柊馬さんの前に向かっていったのですね。 柊馬さんはハンチングハット、団栗眼の光が鋭く、手はグローブのように頑丈そうでした。「す、す、すみません、サインいただけますか」 繰り返すけどどこの馬の骨ともつかぬ若造(三十代ではあったけど)が唐突に申し出たわけですよ。 柊馬さん、「セレクション柳人」、じろ、と見て、「どこで買ったんや」 と聞かれました(関西弁を再現できてないのは川合の能力不足)。「あ、東京の——東京堂書店だったかな——新刊で、買いました!」 こっちが緊張して倒れそうになっているのを、ちら、と眺めたかもしれないけれど、柊馬さん、ほんとにさりげなく、「かわいそうに」 と一言、おっしゃったのですよ。 そうおっしゃりながら筆ペンを走らせる姿を見て、もう痺れる痺れる痺れる! かっこいいとはこういうことか! と私のゲージは限界突破してましたよほんと。 調子に乗った私、「川柳のコツを教えてください」と無礼にもほどがある質問までしてしまいました。ほんと無礼です。あの石田柊馬をつかまえてですよ? それなのに柊馬さん、「〜は〜、という型式、A=Bというかたちをやめなさい。そういう問答体は、問いに答えてるだけだから、句が寸胴になってしまう。まず「は」と書いたら、「を」や「が」に直して試してみなさい」「ありがとうございます!」 ものすごく丁寧に、わかりやすくお答えになってくれました。そうか。なるほど。川柳ってそこまで考えるんだ。 妖精は酢豚に似ている絶対似ている/石田柊馬 って「〜は〜」なんだけど、人間の限界まで「は」について追求した句だと深く深く理解した次第。その「覚悟」に戦慄したけれど。 何より、「石田柊馬」はかっこよかった。直にお会いしたのは五回もないだろうけれど、そのたびにピンと伸びた背筋、深い思慮をたたえた瞳を、どうしても忘れることができない。 かっこよさは勿論外見から来るだけじゃ無くて、「これだけの物を作った、そしていまも作り続けている」という「戦士」としての矜持が全身にみなぎっていたのだと思う。何よりも句が、作者が、かっこよかった。 かっこよかった。 かっこよかった。 こんなふうに過去形で書く日が来るとはぼんやりと予想していたけれど、いざ来てみると、何も言葉が力を持っていないことに気づます。 本棚の「石田柊馬集」はまだ今日ひらいていません。いっそ本棚の奥深くにしまったまま、永遠に開かないでおこうとさえ思います。それがどんなに非礼な行為であっても。それくらい今の私は混乱しています。 かっこよかった。 そう書くことすら実は冒涜かもしれない、と思いつつ、書くことしか今の私にはできない。 石田柊馬永眠。 この事実の前に、なんの川柳を書けというのだろう? と怯えつつ、こんな駄文を書き連ねています。それは、それではない。という教えをどこかに喚起しつつ。 正直言って私は石田柊馬の弟子とすら呼べません。それでも石田柊馬がいなければ、『スロー・リバー』も、『リバー・ワールド』も出すことは永遠になかった。一日百句詠んだりとかできなかった。だから人生を変えてくれた人なんです。その人が、無茶苦茶にかっこよかった。 さっきも書いたけど『石田柊馬集』を私はいまひらいていません。句の引用もしません。これがどんなに失礼なことであるかは、「作者」として戦い続けた闘士への冒涜であると、さっきも書きました。 ただ、私のなかの石田柊馬は、つねに石田柊馬を超えていく人でした。だからこれから、長い長い石田柊馬の死後も、石田柊馬は石田柊馬を超えていくのでしょう。それが私への免罪になるとは思えないにしても。 きょう、Twitterで #ジャイフェス というお祭りを蔭一郎さんと仕掛けています。いまも#ジャイフェス とタグつけされた句が投下され続けています。 ジャイフェスはジャイアンの誕生日。それがなんの暗合だとも思いません。人の死には意味がない。意味ができるのは生の側にしかない。 #ジャイフェス の句が投下され続ける日中に、私はこの文章を書いています。もっと石田柊馬さんとお話ししたかったな、もっとお手紙さしあげればよかったな、全ての悔いを悔いのままにして。 もうほんとうはこれ以上語るべきではないのでしょう。Twitterのつぶやきが奔流ならば、私たち川柳人は奔流を支流に引いてくる役割を課されているはずです。だから言いたい。すべての人に幸あれ。柊馬さんがご健康を害されていることは知っていた。知っていたのに田舎で寝転がっていた私を含めて、すべての人に幸あれ。 今日はジャイアンが生まれた日。架空のキャラクターに設定された誕生日。そんななかで私は石田柊馬さんの訃報を聴きました。これに何の暗合もありません。ただ、私は川柳を書き続けます。死ぬまで、死、という面倒くさいものを引き受けるまで書き続けます。 そのための駄文でした。ただ、「石田柊馬はかっこいい」。これは永遠に、現在形です。 みなさんに幸あれ。 最後にお会いしたとき、「あなたの句は、川柳との距離感が、ほかのひととは違う」と言ってくださった意味を、一生考え続けます。 あんパンへひかりのなかへ柊馬逝く 大祐
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